お医者様でも草津の湯でも
Part 1

「いただきます……くっ」
 飲み込んだ途端に襲った痛みに僕は息を詰めた。
(やっぱりダメか……)
 深いため息と共にスプーンをトレイに戻し、そっと痛みの元の胃を押さえた。

 ここは『医科大学付属病院』給食センターに隣接している職員専用食堂。
 朝日の差し込む食堂全体に澱んだ空気が漂っていた。
 営業時間が決まっている病院内のレストランと違って、ここは24時間体制で時間の不規則な職員達にバランスの取れた食事を提供してくれている。だから夜勤明けの看護婦やら医者達が疲れた身体を引きずって帰宅前の一時を過ごしにやって来る。勿論それだけじゃなくて始業前の休息を取りに来る人達もいるけれど。
 かく言う僕も澱んだ空気を発している一人だったりする。
 寮に帰る前に取りあえず何か腹に入れようとやって来た僕の前には食堂名物の “お粥定食”が美味そうな湯気を立てていて、おまけに昨夜は食事をする間もないほど忙しく、飲み物だけで誤魔化してきた腹は背中とくっ付きそうなほどだ言うのに、受け入れるべき当の胃がそれを拒否してくれる。
 恐る恐るお茶を含みゆっくりと飲み下す。
(飲み物は大丈夫。ならこれは?) 
 ヨーグルトを一さじこれもゆっくり飲み込んでみた……ほんの少しチクリとするけれど、とりあえずこれも大丈夫そうだ。
(それなら……痛ゥ〜)
 調子に乗って粥を口に放り込んだ途端に胃がズキンときた―――で、僕は再び胃を押さえ込むことになった。
(どうしてくれるんだよ。固形物が食えなきゃ力が出ないって……今日は休みだからいいとしても、ずっとこのままだと参るよなぁ、何とかしないと……)
 心の中でむなしく叫びつつお茶で思い通りならない胃をめる僕――森 浩之(もり ひろゆき)――はこの病院に勤務する外科医……といってもホンの3ヶ月前に研修を終えて独り立ちしたばかりのペーペーだけど。
 ペーペーとは言え患者さん達から見れば『エライお医者の先生』に替わりは無くてこんな僕でも数人の患者さんを抱えているのである。
 故に担当医師である僕が倒れたりなんかしたら……そりゃまあ、代わりをしてくれる先生は沢山いる。しかも皆僕より知識も経験もあるときてる。でも、彼らにもそれぞれ担当する患者はいるんだから、僕個人のためだけに迷惑をかける訳にはいかない。
 それは患者さんに対しても言える事で――――。
(しっかりしてくれよな!)
 僕は言い聞かせるように胃の辺りを撫でた。
 
 胃痛の原因は判っている。
 指導医の元を離れて何もかも自分ひとりでこなしていかなければならないっていう責任感からくるストレスが自慢にはならないけれど、人一倍神経の細い僕の胃に押し寄せた……というのが一つ。
 そう原因はもう一つある。
 最大のヤツが―――。
「おはよう 諸君!」
 沈黙を破るように食堂内に響き渡った声に一瞬にして澱んだ空気が一掃され、疲れ切った表情だった看護婦達の間に華やかな雰囲気が広がった。
 つられて振り返った視線の先には長年憧れ続けている相手が、見慣れた白衣姿で爽やかな笑顔を振りまいていた。その背後からヒョイと可愛らしい顔が覗き食堂の雰囲気は更に明るさを増した。反対に僕の気分は奈落の底まで落ち込み、治まりかけていた胃の痛みがぶり返した……ような気がした。

 加藤 公嗣(かとう こうじ)―――中・高・大学を通しての先輩であり、研修医時代の指導医でもあった彼と背後にくっ付いている若い研修医が僕の胃痛の最大の原因なのだ。
 病名『恋煩い』。
 そう僕は先輩に恋をしている。
 もうずっと前から―――――古来より医者でも治すのは難しいとされている難病にっているのだった。

 家族ぐるみで世話になっていたかかりつけ医院の三男坊、それが先輩だ。
 僕が先輩を知ったのは20年ほど前のことだ。
 その頃の僕は今からは想像もつかないほど病弱で、季節の変わり目になると“必ず”と言っていいほど風邪を引き、熱を出しては寝込むということを繰り返していた。その度に往診に来てくれていたのが、口ひげを蓄えた笑顔の優しい当時の院長先生だった。
 院長先生の知識は恐ろしいほど広くて往診に来るたび面白い話を聞かせてくれたし、聞き上手でもあったから他愛もない僕の話にも根気良く付き合ってくれたのだ。
 簡単に会える場所に祖父母のいなかった僕にとって本当のおじいちゃんのようで、両親にも言えない話でも先生には打ち明ける事ができたんだ。
 ヘンな話、僕はこの院長先生に会いたいが為に寝込んでたんじゃないかとも思う。
 そんなある日、例によって寝込んでしまった僕の元に僕と同年代の男の子を二人連れて先生が往診にやって来た。
 その日の事は今でもはっきりと覚えている。
 七つ離れた姉はその頃既に中学生で妹は生まれたばかり、おまけに幼稚園にも満足に通うことが出来ず、入ったばかりの小学校さえ休みがちで友達がいなかった僕の世界は当然というかなんと言うか狭くて―――その上、人見知りも激しかった。
 なのに―――。                                                「俺、加藤 公嗣。よろしくナ!」
 ぶっきらぼうに言って突き出された手を信じられないことに僕は即座に握り返していた。
 先輩の何に(何処に?)惹かれたのかは判らないけど、とにかく、その日を境に僕の世界は一変した。
 先輩は僕が寝込んでいようといまいと毎日毎日学校帰りに顔を見せ、その日あった出来事を話してくれた。自然と僕も先輩が来るのを心待ちにするようになった。
 はじめの内はチビも一緒だったけど何時の頃からかチビは顔を見せなくなり、それに代わって先輩は友達を連れて来るようになった。僕が先輩の友達ともなんとか話せるようになると今度は外へと連れ出そうとしてくれた。
「家ン中にばっかりいるから病気になるんだぞ。外で思いっきり暴れたら病気なんてどっか行っちまうって。ホラ、来いよ!」
 外に出るのを躊躇う僕の手を引いて、先輩はニカッと笑った。
 渋る友人達を説き伏せてサッカーの仲間に入れてくれたり、秘密の隠れ家を教えてもらったり……いい事も悪いことも、ありとあらゆる事を先輩から教えてもらった。時には母やお母さん先生からお小言を貰ったりもしたけれど止めることなんてできなかった。
 言ってみれば『ヒナの刷り込み』状態だった訳だ――――そう生まれて初めて目にしたものを母親だと思う、と言うアレだ。
(ずっとこの人と一緒だったら楽しいだろうなぁ……)
 漠然とした思いが僕の中に生まれていた。
 同じ場所にいたくて、置いていかれたくなくて僕なりに必死に頑張った結果、そう簡単に風邪をひかなくなり、また風邪を引いても寝込む事はなくなった。ただ単に成長して身体ができてきたからかもしれなかったけれど。そうなると現金な物で、同じ学校じゃないのがたまらなく淋しくて、後を追いかけるようにして同じ中学に進学して、当然のように同じクラブを選んで……純粋な“憧れ”だった筈のそれが何時“恋”に変わったのかはもう覚えてないけれど、気が付けば先輩の姿を追いかけるようになっていた。
 ごく普通のサラリーマン家庭に育った僕が医者を志したのもそのためだ。
 突然の医大進学宣言とそれにかかる膨大な費用に頭を抱える両親に必死の思いで頭を下げて塾に通ったのも、血を見るだけで貧血を起こしそうになる身体をしかりつけて研修先に外科を選んだのも、全ては先輩の傍にいたいという切なる思いからだった。
 なんとか同じ病院にもぐりこむことができて、指導医についてくれた二年間は僕にとって幸せの絶頂ともいえる期間だった。学生時代とは違って常に同じ時間を共有できた。
 そりゃ楽しいばかりじゃなかったけれど。それでも近くに居られるだけで、先輩を感じられるだけで幸せだった。
 なのにそんな時間はあっという間に過ぎて―――。
 研修が終わると同時に配属されたのは、それまで研修を受けていた先輩のいる『第一外科』ではなくて『第二外科』だった。
 その時の僕の気持ちを解って貰えるだろうか。
 でも、それだけだったらこんなにも僕は悩まないし胃だって悪くしなかったはずだ。だって所属は別と言っても『第一外科』と『第二外科』は通路を挟んで向かいどうしだし。姿を見ようと思えば、どちらかが休みでない限り見ることができたから。
でもアイツが追いかけてきた。
 僕の天敵―― 桜井 雅弘(さくらい まさひろ)――が。
 従兄弟だかなんだか知らないけど学生時代からことごとく先輩と僕の間に割って入ってくれた。
 アイツが入学してきた途端、僕とアイツの立場はモノの見事に逆転した。
 昔から『人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまえ』って言うけど、世の中そんなに上手くいかない。人の恋路を邪魔してるのは僕の方で、馬に蹴られて死にそうな目に合うのは……そう考えるだけで気分は果てしなく落ち込んだ。
 だって4つ下の雅弘を先輩は目の中に入れても痛くないほど可愛がっていたから。
 それは先輩が指導医についた今も変わらない。
『手取り足取り』って言葉がピッタリくるほどで、その丁寧さには皆が舌を巻くほどだ。
 そりゃ男でも可愛いい奴に甘えてこられれば悪い気はしないっていうのは解るけど。
 それでも僕の時とは大きな違いだ。
 ちょっと疑問に思った事を聞いても、『自分で考えろ。その頭は飾りなのか? 大学で何を勉強してきたんだ』と冷たく突き放してくれた。
 担当指導医と楽しそうに話している同期と自分を比べてはため息をついたものだった。
 一度、腹に据えかねて食って掛かると『なに、愛のムチだ』とさも楽しそうに笑いながら答えてくれたっけ。 
 僕が必死になって医学書と格闘し始めたのはそれからだ。
 どんなことがあっても認めさせてやる、絶対こっちを向かせてやるってさ。
 お陰で知識だけは誰にも負けないくらい身についたけど。
 病棟でも外来でも見かける先輩の周りには人が群がっていた、当然の如くアイツも張り付いている。
 そこに僕の居場所はない。
 独り立ちしたんだから当たり前といえば当たり前のことだけど、とてつもなく淋しく感じた。
 二丁目のNo.1ホストって言っても通用するくらいの容姿とスポーツマン並みの立派な身体。何を着せてもスマートに着こなしてしまう先輩に一番良く似合うのはやっぱり白衣で……病院で働く女性職員だけじゃなく年齢性別を問わず患者達の憧れの的。おまけに実家は大きな総合病院で、戻れば外科部長の椅子が待っている。
 まさに『顔よし・頭よし・家柄よし』と三拍子揃った悔しいぐらいにいい男なのだ。
 普通そこまで揃っていれば同僚や先輩医師達の反感を買いそうなものなんだけど、それに見合うだけの腕も持っているから、やっかみつつも誰も文句など言えないのだった。
 雅弘もしかり。
 コイツの実家もかなり大きな個人病院だと聞いた事がある。
 未だ高校生と言っても通用するような可愛らしい顔と素直な性格で患者受けは今期研修医中No.1だ。
 誰も雅弘がネコをかぶってるとは思わないだろう。アイツが敵意を見せるのは何故だか知らないけど僕だけなのだ。
 先輩に可愛がられる雅弘を羨ましいと思う気持ちはあったけど、アイツになりたいと思ったことはない。
 でも女だったら――――とはこれまで何度も思った。
 だって悩む必要がないし変な目で見られることもない。大っぴらに先輩に恋することができる。告白してふられようとも後ろめたい気持ちにもならなかった……と思う。
 特に先輩をそういう対象として意識し始めてからはその手の話題には敏感で常に周囲の目が気になった。本屋で見つけた本を時間を忘れて読みふけったり、その中の主人公達に自分を重ねて自慰をしたことだってある。
 でも、所詮あれは絵空事……終わった途端にいたたまれなさにまれるばかりだった。
 先輩ほどカッコ良くもないし雅弘ほど可愛らしくもないけど、僕だって見た目はソコソコいけてる方だと思う。過去に何度か告白されたこともあるし女性と付き合った事だってある。
でもダメ。
 自分から望んだ恋愛じゃないだけに、相手が真剣になればなるほど僕は逆に冷めてしまうのだ。
 俗に言う「ハッテン場」に足を向けたこともある。
 けれどそれも違った。
 根っからの“ゲイ”という訳でもないらしく僕は先輩が――――加藤 公嗣が好きなのだと言うことを思い知らされただけだった。
(僕ってマゾなのかなぁ。報われない恋だって判ってるのになぁ……)
 ハァ〜と深いため息をつきかけて僕はそれを飲み込み「ダメだ、もう少し前向きに考えないと……」と軽く頭を振った。
「何をさっきから百面相をしてるんですかね、森先生?」
 いきなり肩に手を置かれて僕は飛び上がるほど驚き「か…あっ…お、おはようございます……」答える声がみっともなくひっくり返ってしまった。
「そんなに驚かなくてもいいだろう」
 笑いを堪えて先輩は「ここいいか?」と手にしたトレイをテーブルに置くと「どうぞ」と答えるより早くドッカと座った。
当然のように隣に座ろうとした雅弘に、
(お前は座ってもいいとは言ってない)
 と視線を向けたけど、綺麗さっぱり無視してくれた。おまけに見せつけるように先輩に擦り寄ったりなんかする。先輩も文句を言わずにされるがままだから余計ムカツク……。
(まったく……何処までもずうずうしい奴だな!)
 コイツは僕が先輩に抱いている想いを知ってるんじゃないだろうか。そう考えれば全て納得がいく。
 僕はチッと胸の内で舌打ちをした。
「なんだぁ険悪な顔して……ん? どうしたぜんぜん食ってないじゃないか」
 美味そうなのにと視線をトレイに落とし、卵焼きをヒョイと摘み口にほうり込んだ先輩に僕は視線を向けた。
(ホント、人の気も知らないで―――)
 いや、知られたら困るんだけど、ついそんなことを思ってしまう。
「食べたいのは山々なんですけどね、あんまり食欲が無いんですよ」
「ほうそりゃ又どうしてだ? 昨夜、脳みそグチャグチャの患者でも処置したのか?」
「……ウッ!」
(どうしてこの人は、こんな言い方しか出来ないのかなぁ、ホント、デリカシーのない……)
 デリカシーが無いことは昔から解っちゃいたけど、思いっきり想像してしまった僕は逆流してくる胃液をやっとの思いで飲み下した。
「…っとになんてこと言うんですか! 忙しいことは忙しかったんですけどね、生憎そんな急患はいませんでしたよ」
「そりゃ良かったな、ならなんでだ?」
 うん、中々いけるな……と暢気に呟きながら青菜のおひたしに手を伸ばした先輩に「胃の具合がね、思わしくないんですよ」と言ってみると「ほ? そりゃいけないなぁ、何か心当たりはあるのか?」って返事で―――。
(心当たりはあり過ぎるぐらいありますよ。原因はアナタ方です!)
 はっきり言えたら苦労はない。でも言ったって軽い冗談として取られるだけだと知っているから僕は精一杯の笑みをうかべてみせる。
(ホント、いじらしすぎて涙が出るよ)
「自分の腕に自信がなくて……じゃないですか? ねぇ、森先生?」
 珍しく大人しいな、と思っていた雅弘が口を開いた…と思ったらいきなりこれだ。
「……どういう意味だ。それは?」
 僕が口を開くより早く先輩が雅弘に聞く。声はあくまでも暢気そのものだ。雅弘はコーヒーカップを持ったまま「だってあの患者、まだ意識が戻らないって聞いてますよ」と答えて肩を竦めた。
 それを言われると僕は口を噤むしかない。
 研修医最後の宿直の時に追突事故に巻き込まれ意識不明の重態で運び込まれてきた青年 川崎 智也さん。 
 他の先生方の手も塞がっていて僕が執刀した彼の意識は3ヶ月たった今も戻らない。集中治療室の一角で計器に繋がれたまま眠り続けている。
 頭部に外傷はなく、傷ついていた内臓の方もほぼ回復しているし、重傷と思われていた大腿部の骨折も快方に向かっている。
意識さえ戻れば直ぐにリハビリに入れるというのに……。
「あれじゃ医療ミスだって言われてもしかたないですよ。加藤先生だってそう思いませんか?」
 チラリと僕を見て雅弘は声を潜めて呟いた。
「なっ……」
(どうして後輩のお前にそこまで言われなくちゃならない? 僕、お前になにかしたか?)
 喉まで出かかった言葉を飲み下す。
「コレ! 桜井先生言いすぎ」
 思わず身を乗り出した僕を「まあまあ」と手で制して先輩は雅弘の頭を軽く叩いた。
「でもぉ……」と不満げに唇を尖らせる雅弘に「仮にも先輩で、同僚でしょ? それに憶測で判断するのは良くないよ」と微笑みかけた。
(言ってる事は正しいけど、仮にもってなんだよ仮にもって! もう少し僕の肩を持ってくれてもいいだろうに。だって……あの時)
 静かに息巻く僕に「それに――」と思わせぶりにチラリと視線を投げてコーヒーカップを取り上げると、焦らすように殊更ゆっくりと一口啜り、
「あの時は俺も見てたけど、森先生のメス捌きは鮮やかなもんで何処にもミスはなかった。だから回復も順調だろ」と続けた。
 そうだよ、それでいいんだよ。
 実はあの時、あの場に先輩もいた。
 でも『見ててやるから卒業試験のつもりでやってみろ。何かあったら俺が助ける』と、後込みする僕の背中を叩いたのは何を隠そう先輩なのだ。
『卒業試験』の実験台にされた川崎さんには気の毒だったけど、勇気が出たのも事実で我ながら良くやったと思う。
 ホンの少し気分が上を向くのに待ったをかけるのは又しても雅弘の奴だ。
「なら、なんで意識が戻らないんですか? おかしいじゃないですか!」と気色ばむ。
「それはまあ、なにか目覚めたくない事情があるんだろうね患者にさ」
「どんな理由があるって言うんですか!」
「さあてね。俺は当人じゃないから判らないけど。まあなんにせよ医療ミスではありえないってことだよ」
 先輩はそう結論付けて僕の方に顔を向け、
「それよりもお前、マジで顔色悪いぞ、本当に大丈夫なのか?」
 と伺うように僕を凝視める。
(うっ、そんな目で見ないでくれるかなぁ。胃よりも心臓が危なくなりそうだ)
 自慢じゃないけどポーカーフェイスって得意じゃない。何時ボロがでるかとヒヤヒヤする。なんとかこの場を切り抜けなくっちゃ。
「先輩に心配してもらうほどのことじゃないですよ、これでも僕だって医者の端くれですから……」
 僕の返事をどう受け取ったのか先輩はしかつめらしく腕を組んで考え込む。
(ホント、何をしても様になるよなぁ)
 雅弘がいることも忘れて暫し見惚れてしまう。
「一度、健康診断受けた方がいいかもしてないな」
「健診ですか?」
 まさかそんな言葉が飛び出すとは思わなかった僕は目を丸くして先輩を見た。
「ああ。 “医者の不養生”って言うだろう。自分の身体のことは自分が――って大口叩く奴に限って酷くなるまで気付かないもんなんだ。お前みたいな生真面目な奴は特にだ」
「ご忠告有難く承っておきます」
「茶化してるんじゃないぞ……ここで診察を受けるのが嫌ならウチの方でもいい」
 ここまで先輩が言うなんて珍しいこともあるものだ。
 それほど僕の顔色は悪いんだろうか?
 でも、その言葉を真に受けるつもりはない。
 僕の事を気に掛けてくれるのは本当に嬉しい、でも「それじゃお言葉に甘えて…」と答えて「なんだ、本気にしたのか?」なんて言われたらそれこそ立ち直れない。
 あの優しい院長先生の孫なのかと首を傾げたくなるほど、先輩は底意地が悪いのだ。
 お蔭で僕も口だけは達者になったけどさ。
「そこまでお世話はかけませんよ。マジでヤバいと思ったら自分で動きますって!」
 取り繕うように言ってこれ見よがしにお粥を口にほうり込んだ。途端に胃が悲鳴を上げ、その痛みは今までにない痛みでテーブルに突っ伏したくなったけど僕は「ほら食べられるんですよ」と根性で笑った。
 僕の顔つきに先輩が口を開こうとした。その時、診察開始15分前を告げるチャイムが食堂全体に響き渡った。
 朝の診察を控えた職員達がバタバタと立ち去る中、雅弘はさっさと立ち上がり「ほら、加藤先生。早く、早く」と先輩の袖を引っ張っている。
(まったく、ガキじゃないんだから……)
「判ったからそう引っ張るな」
 苦笑いを返しながら先輩が立ち上がるのに合わせて僕も重い腰を上げる。
 このままメシを前にしていても食べられないのなら帰った方がいい。少しでも体力を温存しなくちゃ。ホントに倒れでもしたらシャレにならない。
 先輩のつまみ食いのお陰でトレイの上は殆ど綺麗に無くなっていた。これなら胸を張って返しにいける。
 

 仲良く病院へ消えていく二つの背中を未練たらしく眺めていると背後で「あ〜あ見ちゃいられないね」と呟く声がした。慌てて振り返ると――――自販機に小銭をほうり込んでいる艶やかな黒髪が見えた。
 周囲に気を配りながら僕は小走りに駆け寄って「どうしたの元哉君……今日は早いね」と声を掛けた。
 それには答えず元哉君は取り出し口から缶コーヒーを取り出すと「ちょっと付き合わって?」と首を傾げた。

 屋上へ続くドアを開けた途端、梅雨独特の湿った風が吹き付ける。それでも今日は眩しいくらいの青空が広がっていた。
「……そんなに好きなら告っちゃえばいいのに……」
 風になぶられるストレートヘアを押さえながらフェンスに背中を預けて空を見上げている元哉君が言った。
「簡単に言ってくれるけどねぇ……断られるの分ってて告白するってのもねぇ」
 ベンチに座った僕は眩しさに目を眇めながらその横顔に目をやった。
(やっぱ綺麗だよ。これで男なんて詐欺だよな)
 何処から見ても目のさめるような美女にしか見えない彼―――立川 元哉(たちかわ もとや)君は例の目覚めない川崎さんの恋人だった。
 バイクに同乗していた彼も事故に遭ったんだけど、後部シートだったのが幸いしたのか比較的怪我は軽く入院も一週間で済んだ。そんな訳で一足早く退院した元哉君は、その翌日から毎日恋人の元を訪れる。面会時間をわざと外して。というのも一度、川崎さんの婚約者という女性と鉢合わせして酷く罵られたからだ。
 彼女は、いやICUのスタッフ達の誰も元哉くんの性別は知らない。
 唯一、僕だけが知っている。
 偶然、判ってしまったことだけど僕だってはじめは驚いた。思わず彼の股間に手を伸ばして確かめたほど、元哉君は完璧に女性を演じていた。
 そんな元哉君だから僕が先輩に向ける視線の意味に一発で気が付いてしまった。
 誰にも言わないでくれと懇願した僕に、
『共犯者だね先生。ばらされたくなきゃ先生も秘密にしてよ。約束だよ』と元哉は笑ってみせたんだ。
 言葉通り、元哉君は僕の前でだけ飾らない素の自分を見せてくれる。だから僕も素直に思っていることを口に出すことができるのだった。
 スレンダーな身体を小花をあしらったワンピースで包んだ元哉君は、少し疲れたような顔色をしていた。