『何をしているんですか、ヒカル? 早く行きましょうよ部活へ〜』 終礼の挨拶もそこそこに教室を飛び出そうとしたヒカルはドアの前で級友の女子数人につかまった。 『今日はどうしたんですか? ヒカル』 「おい、君?」 「どうして?」 (おしまい)
思いの所在(ありか)
授業の間静かにしていた佐為が放課後を待ちかねたように声をかけてきた。
(掃除だよ)
ヒカルは面白くなさそうに思い浮かべる。
口に出して言わなくても思い浮かべるだけで通じるなんて、便利だよなとヒカルは思う。
それもその筈、相手は御年千歳になろうかという霊体なのだから。
物置で見つけた古い碁盤に宿っていた佐為に取り憑かれたという訳なのだ。はじめこそ戸惑うことも多かったけれど慣れてしまった今となっては結構楽しいと感じてもいる。
『掃除なんて古来から女の仕事だと決まっているでしょう、どうして男のヒカルがそんなことをするのです?』
さも当たり前だと言わんばかりの佐為の言葉にヒカルは眉をひそめて自分の肩のあたりを振り向いた。
(佐為、今のスッゲー差別発言だぞ。今の世の中――え〜と「男女雇用機会均等法」とか何とかのおかげで男女平等になっちまったんだ。お前が生きてた時代とは違うんだよ)
平安生まれの佐為は目に映る全てが珍しいらしく色々と聞いてくる。その一つ一つに持てる知識をかき集めて一生懸命説明するヒカルの言葉で佐為も自分が甦った現代社会というものを少しは理解できているようだった。
『ほう、そうなのですか。世の中変わりましたね。でもそうだとしたらあの者達はどうしてヒカルを手伝わないのですか?』
「はぁ〜」
佐為のもっともな疑問にヒカルは手を止め、箒の柄に顎を乗せて教室の後ろに目を向けた。
視線の先では、同じ掃除当番のはずの級友が四人固まってなにやらヒソヒソと話している。楽しげな笑い声も聞こえてくる。
(お前らだって掃除当番だろ? ちっとは協力しろよなぁ)
とは思うものの、口には出していえないヒカルだった。
自分よりも遥かに体格のいい女子に取り囲まれ「進藤ばかり掃除をサボるのはずるい」「今日はアンタがやるんだよ……」と延々と続きそうな文句の数々に閉口したヒカルは、身を小さくしてコソコソと出て行こうとしていた級友達を悪いとは思いつつ道連れにしてしまったのだ。とばっちりをくらった状態の仲間が手伝ってくれるはずもない。ヒカルだって同じ態度をとられたら手伝うなんてしないだろうから。だから一人黙々と箒を動かしていたのだった。「おい進藤。お前さっきから何、百面相してるんだよ」
その中の一人がヒカルに声をかけてきた。
「百面相だってぇ〜」と声を上げたヒカルに佐為が軽く肩を竦め舌を出した気配が伝わった。
(佐為、お前のせいだぞ。教室に居る間は出てくんな!)
チラリと流し目を送ると佐為はシュンとうな垂れ『だって少しでも早く囲碁部に行きたいんですぅ〜』と呟く。
(それは俺だって同じ。だからさっさとやってんだろ、少し黙ってろよ)
「ホラ、又! くそ真面目に掃除なんてしてるから頭、ヘンになったんじゃないのかぁ」
茶化すように言う一人につられて他のメンバーもクスクス笑う。
(誰もやりたくて百面相してんじゃねえや!)
心の中で呟いて軽く佐為をにらみ付けると、ヒカルの立場を察したのか今度は大人しく引き下がった。
「真面目にやってる訳じゃないけどさ、キチンとしとかないと後でなんって言われるか……」
モゴモゴと呟きながらヒカルは止めていた手を動かし始める。
「んなの、デカイゴミさえ無きゃ何もいわれないって」
「そうそう」
「進藤ってさ、見かけによらず律儀だよなぁ〜」
その一言に集団から更に高い笑い声が上がる。
(好き勝手なこと言いやがって……見かけによらずだけは余計だよ)
ヒカルは心の中で舌を出す。
そりゃこれまではちゃらんぽらんだった。でも囲碁をはじめてからの自分はかなり礼儀正しくなったと思う。部活に行きたくて掃除をサボるのが正しいのかと言われれば反論はできないけれど。
「おい進藤、マジな話、掃除はそれくらいでいいんじゃねぇ。それよりさ、コッチ来いよ、聞きたいコトあんだ」
「なんだよ聞きたいことって」
きっちりと掃き集めたゴミを塵取りですくいゴミ箱に片付けたヒカルは箒を掃除道具入れに片付けて集団に近づいた。
「お前さ。藤崎アカリとどういう関係?」
「へ? アカリ? ただの幼馴染だけどアイツがどうかした?」
質問の意味を量りかねたヒカルはとりあえず聞かれたことだけ答えた。
「お前、藤崎前にしてなんとも思わないわけ?」
「なんともって?」
「結構人気あんだぜ彼女、先輩達にも同級生にもさ」
「へぇ〜あのハネッ返りがねぇ」
(まあ可愛いといえば可愛いかなぁ……)
ヒカルは首を傾げる。
これまでアカリを女の子としてみたことなんか無い。好き勝手なことを言い合える気の合う友達――そういう対象だった。それをいきなり「どういう関係だ」と聞かれてもヒカルには良くわからないのだ。
「そういい切れるのお前だけだよ」
「そうかなぁ?」
またまた能天気に応えたヒカルに問い掛けた相手はため息をついた。
「じゃ聞くけどさ、お前気になるヤツっていないの?」
「塔矢アキラ……」
聞かれて真っ先に頭に浮かんだ名前を呟いたヒカルに級友は大袈裟に額に手を当てた。
「アキラって、進藤、それ男じゃねーのぉ」
そうだよ、とヒカルは頷いた。
ヒカルが碁に興味を持つようになった一番の原因。今はずっと高みにいてヒカルを見下ろしている。ヒカルの目標でありライバルだと思ってもいる同い年の少年だ。
「他には?」
「他に? んーと……」
筒井さんと加賀さん、それから三谷、海王の岸本さん……思いつくままヒカルは名前を挙げていく。すべて囲碁に関係のある、しかも自分より遥かに実力のある男ばかりを。
そして最後に思い浮かべたのは “佐為”だった。
多少強引ではあったけれどヒカルを碁の世界に引っ張り込んだ張本人。
平安時代に生まれながら未練を残し手たまま命を無くし、そしてその未練の為ゆえに千年という長い時間、この世とあの世の境目をさまよいつづけているという。一度、器を見つけて甦りはしたものの、その器だった男も志半ばで若くして亡くなった。
そうしてまた百四十年という時を経て今、ヒカルという器をみつけて現代に甦った。
「お前ね、何時までも小学生気分で居るんじゃないよ」
「いきなり囲碁なんて枯れてんじゃねぇよ」
「まったくジジくせぇ〜」
「別に枯れてるわけじゃない! お前等こそ囲碁の面白さが解ってない!」
畳み掛けるように言われてヒカルは声を荒げた。
「囲碁の面白さなんか解りたくもねーや」
「じゃあ囲碁以外にお前が興味あること言ってみろよ」
と迫られてヒカルは言葉に詰まった。
これまでなら「ゲーム!」とか「マンガ」とか「サッカー」とか……興味を引くものは色々あったのに。
母親に「あんたって何をやらせても長続きしない」とため息をつかれるほど興味はあらゆるものに飛んでいたのに……今はそれが囲碁しかない。
いつか塔矢アキラに肩を並べ、そしてそれを追い越す。
佐為の見たがっている “神の一手”を自分が打つ――それしか頭になかった。
「ほらみろ答えられねぇジャンか。女にも興味が無くって、囲碁だけしか目に入ってないお前を枯れてるって言わなくてなんて言うんだよ」
「―――誰も女に興味がないって言ってないじゃないか!」
悔し紛れにヒカルは搾り出すように言った。
「どうだかな。藤崎といてなにも感じないようなヤツだろお前はさ」
「だから、アカリは小さい頃からずっと一緒で女だなんて意識したことなんて無いんだって!」
むきになって反論したヒカルは別の相手に「ならさクラブサボれるかお前」と聞かれ「えっ……」と目を見開いた。
「俺達これからナンパしに行くんだ。少しでも女に興味があるって言うんなら付き合えるだろ?」ともう一人が誘う。
「それは……」
自分もそうだけれど、放課後を楽しみにしている佐為の事が頭を過ぎった。
「ホラ見ろ! やっぱ出来ねぇんじゃん」
馬鹿にしたように肩を竦める級友にヒカルは拳を握り締める。
「まあまあ今日のところは勘弁してやるよ。それよかさこれ貸してやっからさ、もう少し世界を広げろや。なっ!」
ニヤリと笑った級友が何やら雑誌をヒカルの手に押し付けた時だった。
「お〜い進藤、何やってんだよ」
前のドアががらりと開き、三谷が顔を覗かせた。
「あっ三谷、ごめん、すぐ行くよ」
タイミングよく現れた三谷にホッとした表情を見せたヒカルは慌てて自分の席に戻ると、手の中の本をカバンに突っ込みドアへ急いだ。
自室の畳の上にゴロリと寝転んだヒカルに少し非難を含んだような声で佐為が話し掛けた。
「べつに……」
『筒井君をあそこまで追い詰めることが出来たのに、最後にあんなマズイ打ち方をして』
「……そうだったかな」
『そうですよ。気付いてないんですか? それに三谷君と打った時の最後の一手、あれは無いでしょう? あそこはハネるべきでしたよ』
ヒカルと二人っきりならば何も遠慮することとは無いとばかりに佐為は話し掛けてくる。しかも“囲碁の天才”と自負するだけのことはあって、初心者のヒカルにも容赦なく文句をつけてくるのだから始末に終えない。それにヒカルも全くの初心者というわけでもない。上手くもないがそれなりに上達はしている。そう筒井を互戦で追い詰められるほどには成長している。
普段なら反論の一つもするヒカルだけれど今日はそんな気すら起きなかった。
確かに今日の自分は妙だったと思う。その原因がクラスメイトの一言だということも解っている。
ヒカルだって自分がここまで夢中になるとは思ってみなかったのだ。
佐為に促されるまま碁会所に行き“塔矢アキラ”を知った、出会った……世の中にはこんなすごい子供が居ることを目の当たりにして自分でもなにか解らないものに突き動かされるように囲碁に挑んできたのだった。今日のクラスメイトの言葉はそれを覆すような一言だった。
自分でも解っていることを佐為に指摘されて「はいそうですね」と頷けるヒカルではない。
『さあさあ碁盤を出して。今日の対局のおさらいをしましょうヒカル』
「煩いなぁ、今日はやりたくない!」
ヒカルは怒鳴ってカバンを引き寄せた。背後で佐為が小さく息を吐いた気配がしたがかまわずごぞごぞと手を突っ込んで級友に押し付けられた雑誌を取り出した。
「ゲッ! なんだよこれ……」
表紙を見ただけで顔が紅くなる。それでも興味を引かれてページを捲った。どのページにも似たような女性の裸が溢れていた。
「アイツ等こんなもの見て何が楽しいんだ?」
『ヒカル? なっなんて物を見てるんですか!』
雑誌を閉じようとしたヒカルの手元を覗き込んだ佐為が咎めるような声を上げた。
「何を見ようと俺の勝手だろ!」
言いたくもない言葉が唇からこぼれることをとめることが出来できず、ヒカルは仕方なく見たくも無い本をもう一度捲りはじめた。
『そんなモノを見ている暇などないでしょう。ヒカルがこうしている間にも塔矢は先へ進んでいるのですよ? モタモタしている暇などないのです』
ヒカルの背中に佐為の言葉が突き刺さる。
解ってる、解ってる、解ってる……そんなことは佐為にいわれるまでも無くヒカル自身にも良くわかっていることだ。
ヒカルは乱暴に雑誌を放り出すと両手で耳を塞ぎ怒鳴った。
「煩いって言ってんだろ! 黙ってろよ。お前なんか消えちゃえよ!」
ヒカルの意識の中に居る佐為は決して消えることなど出来ない。そうヒカルの命が尽きるときまでは一緒に居るしかないのだ。なにもかも……佐為のいう事も今、自分がやるべきことが何なのかも解っているけれど今のヒカルには全てが重すぎた。
『ヒカル……』
悲しげな声で呟き佐為はその場に立ち尽くしている。消えてくれる気配は無かった。痛いほど佐為の思いが伝わってくるけれどヒカルは自分から折れることができない。
「解ったよ! お前が消えないんなら俺が出て行く! 付いて来んな!」
怒鳴り散らしてヒカルは部屋を飛び出した。
「こんな時間にどこへ行くのヒカル!」
キッチンから顔を覗かせた母の言葉もヒカルの耳には入らない。そのままスニーカーを突っかけてヒカルは玄関を抜けた。
ゲームセンターの入り口でボンヤリと中を眺めていたヒカルは肩をポンと叩かれて振り返った。
「やっぱり……進藤だろ? 葉瀬中囲碁部の……」
「……岸本――さん?」
額に落ちかかる前髪をかきあげながら頷いたのは、塔矢アキラの所属する海王中囲碁部の主将の岸本だった。
「こんな時間に何してるんだ? アンタ……」
きっちりと制服を着こんだ岸本がいかにも場違いに見えてヒカルは首を傾げて見上げた。
「それはこっちのセリフだな。俺は塾の帰りなんだ。君こそこんな時間にどうしたんだ?」
「……ん、ちょっとね……なあ岸本さん、俺どうしたらいいんだろう?」
親しく口を利くことなど出来ないはずの岸本に思いもかけず優しい言葉を掛けられてヒカルは泣き笑いの表情で聞いた。
「……大体のところは解った。これからどうするかは君次第だと思う」
ヒカルの前に立っている岸本が缶ジュースを一口飲んで言った。
「俺、次第……かぁ」
ヒカルはベンチの背にもたれて空を仰いで呟いた。
「話してみろよ」と言ってくれた岸本に素直に頷いたヒカルは、この児童公園までの道すがら今日一日の出来事を話して聞かせたのだった。勿論、打ち明けるわけにはいかない佐為のことは“自分に囲碁を教えた友人”ということにしておいた。
「なあ岸本さん。この世に未練を残すってどういうこと?」
「なんだ突然。さっきの悩みはどうしたんだ?」
「これも関係あるんだよ、なあどういうことかわかる?」
突然の話題の転換に慌てて聞き返してくる岸本にヒカルは身を乗り出して真剣な目をむけた。
「そうだな、詳しいことはよく知らないが……」と岸本は前置きしてヒカルの隣に腰を下ろした。
「この世に何か未練を残して死んだ人間が、肉体を無くしても魂だけで存在しているってことかな?」
「じゃあさ、その未練が無くなったらどうなると思う?」
「う〜ん、未練がなくなるって事は満足するって事だ。だから魂は浄化されて帰るべきところへ帰るって聞いたことがあるけど、全部に当てはまるかどうかは解らないな。これが何の関係があるって?」
問い掛けてきた岸本に「うん、ちょっとね」と頷いてヒカルはそのまま考え込んだ。
佐為の未練は自分も、本因坊秀策も達成できなかった“神の一手”を見ることだと言っていた。
もし、もしもヒカルがその“神の一手”を打つことが出来たとしたら?
岸本が言ったことが正しいとすれば、ヒカルかアキラのどちらか……はたまた別の誰か――一番近いのは塔矢名人だろうか――が“神の一手”を極めたとしたならば……佐為は消えてしまうのか?
(そんなのイヤダよ……)
漠然とした不安がヒカルの心に浮かんだ。
居ればいたでうるさい存在。でもそれが居なくなると思うだけで寂しいと感じてしまう。現に今だって……自分が投げつけた言葉どおり佐為は意識下に深くもぐりこみ表層に現れてはこない。その存在すら消してしまったかのように。ほんの数分前まで一緒にいた、身近に感じていたのに今ではその気配すら感じることが出来ないほど離れているように思える。
それを寂しいと感じている自分……。
何時の間にかそばに居るのが当たり前になってしまっていた。そう、幼馴染のアカリと同じ、言いたいことが言い合えてお互いのことが解る―――佐為は何時の間にかそういう存在になっていた。
(佐為に謝らなきゃ……)
当たり前のように言葉が脳裏に浮かんだ。
「岸本さん、俺、帰るよ」
言うなりヒカルは立ち上がった。
「悩むのは終わったのか?」
それまで無言で参考書に目を落としていた岸本がゆっくりと視線を上げ、自分を見上げてくるのに、少し照れくさそうな表情でヒカルは>笑いながら頷いた。
「うん。俺が悪かったんだ。アイツは何時も俺のことを一番に考えて、俺の為に助言してくれてたのに、アイツが居なくなったら寂しいのは自分だってことに気がつかなかった。だからあんなひどい言葉投げつけちまった。だから帰ってアイツに謝るよ、俺」
早口でまくし立てたヒカルに岸本は「そうか」と頷いただけだった。
「有難う岸本さん」
「君の口からそんな殊勝な言葉が聞けるとは思わなかったな」
一瞬目を丸くした岸本が言うのにヒカルは頬をプッと膨らませた。
「なんだよ、人がせっかくお礼言ってるのに。俺、ちょっと岸本さんのこと見直しかけたのに……海王の大将もいいとこあるじゃんってさ」
「それは済まなかったな。けど俺だって後輩には優しいんだよ。でも君は直接後輩ではないから、そういう意味でいくと特別ってことになるか。まあなんにしても君にリタイアされたら面白くないからな」
「どういうこと」とヒカルは首を傾げる。
「塔矢が君に興味を持ったように、俺も君に興味がある」
さらに首を傾げたヒカルに岸本は唇の端を少し上げて微笑んで見せた。
「同じ碁を打つ者として今の君は実に面白い存在だと思う。俺は早々に諦めてしまったけれど、君と塔矢がいるなら日本の囲碁界はもっと違ったものになるだろう。今から楽しみだ」
夢見るように言った岸本の言葉をヒカルが本当に理解するのはもう少し後のことになる。
今のヒカルには「中学囲碁界に君臨する海王の大将に誉められた」という単純な喜びしかなかった。
「ヘヘヘ……誉められた」とヒカルは嬉しそうに頭を掻いた。
「別に誉めたわけじゃない。もっと精進しろと言ってるだけだ。この前の大会のような情けないことでは困るからな。君はあの塔矢がただ一人ライバルだと認めた男だから……」
「うん、解ってる。それでも嬉しいんだ。岸本さんはちゃんと俺を見てくれてるんだから。それじゃ、又! 今日は本当に有難う!」
笑顔を崩さずに言いたいことだけいってペコリと頭を下げ、ヒカルは駆け出した。
「おい! 送らなくてもいいのか?」と追いかけてきた岸本の言葉に立ち止まったヒカルは振り返り「大丈夫! 俺んちここから近いから」と叫んだ。
「そうか。それなら気をつけて帰れよ。それとその友人にもよろしくな」
続いた岸本の言葉に大きく頷き「解った、言っとく。それと今度は囲碁の相手してくれよな。俺、あの時のまんまじゃないよ、三谷にだって随分近づいたんだ」と嬉しそうに手を振った。
「それは楽しみだな。でも敵の俺に自分の実力をみせてもいいのか?」
負けじと声を張り上げる岸本に「岸本さんは敵じゃないよ。友達だよ。ト・モ・ダ・チ〜」後ずさりながらヒカルもさらに声を張り上げる。
「友達か……なかなかイイ響きだな」
低い岸本の呟きはヒカルの耳には届かなかった。
「じゃあね岸本さん、今度こそホントにサヨナラぁ〜」
立ち尽くす岸本に手を振り、言葉どおりヒカルは全力で駆け出した。
ウチへ戻ったヒカルは母親からたっぷりとお小言を貰いながら夕飯を済ませ、その後、追い立てられるように風呂を使いバスタオルで髪を乱暴に拭きながら部屋に入るとベッドに腰かけた。
(なんて切り出そうかなぁ……やっぱゴメン? それとも俺が悪かった――かなぁ)
『言葉なんてどうでもいいですよ』
首をひねるヒカルの頭の中に佐為の声がこだました。
「佐為?」
ヒカルは冗談でなくベッドの上で飛び上がった。
「お前、出てくるなら出てくると一言いえよなぁ。マジで心臓飛び出すかと思ったじゃないか!」
照れ隠しにわめき立てたヒカルは佐為がクスリと笑う気配を感じて嬉しくなった。
「……ゴメンな、佐為―――」
何時もと変わらぬ佐為の態度にヒカルの口から言いたかった言葉がすべり落ちた。
『なにがです?』
「さっき、ひどい事言った、俺……お前なんか消えちゃえって」
『ああ、そのことですか。気にしてないといったらウソになりますけど、お生憎様ですね。私はヒカルの身体が殊の外に入っていますので、当分出て行くつもりはありませんよ』
「ホントか?」
ヒカルは嬉しくて上ずってしまいそうになる声を押さえつけるように佐為がいる方向に目を向けた。
『ええ。本当です。私こそ嬉しかったのですよ。ヒカルがそこまで思ってくれて……』
佐為の言っていることを理解したヒカルは頬を紅して眉間にシワを寄せた。
「佐為、テメェ又、勝手に俺の考え読んだなぁ〜」
『それは違いますよ。ヒカルの思いが勝手に流れ込んできたんです』
もっともらしく佐為は言って、ユラリとその姿をヒカルの前に現した。
『ついでに言わせていただければ、“神の一手”を打つところを見ても私は消えたりしませんよ。消えるわけにはいかないでしょう?』
『私はヒカルと塔矢、貴方達二人がどこまで駆け上っていくのかを見てみたいのですよ。貴方達だけではありません。三谷君や筒井君それに岸本君もね』
「そうなのか? 本当にそう思ってるのか?」
ヒカルは確かめるように何度も佐為に問い掛けた。佐為は優しく何度も頷く。
『本当ですよ。貴方達には秀策に感じなかった途方も無い力を感じるのです。そしてそれを見届けるようにと誰かが私に告げている声が聞こえるのも本当なのですよ』
よかったぁ〜とヒカルは心底安心したように息を吐いた。
出来ることなら佐為に抱きついてしまいたいくらいだった。
でも、今、目の前に見える佐為は当たり前のことだけれど実体ではない。口だけでなく態度で嬉しさを示したいのに出来ないことがもどかしい。
だからヒカルはその嬉しさを、
「じゃあ俺は安心して“神の一手”を極めることに専念する。俺が佐為に“神の一手”を見せてやる」
そういう言葉で伝えた。
『さて、それはどうでしょうか?』
からかいを含んだ声で佐為に言われたヒカルは当然面白くない。
「なんだよ、どういう意味だよ。俺にはムリだっていうのかよ」
パンパンに張り詰めていた嬉しさが急にしぼんでいくような気がしてヒカルはそっぽを向く。そのヒカルの背中が心なしか暖かくなった。首を巡らせると佐為がふんわりと腕を回してくれていた。
『もうホントウに短気ですねヒカルは。私はそんなこと一言だって言ってないでしょう?』
慰めるように呟く佐為の吐息が首筋に掛かるような気がしてヒカルは首をすくめた。
「だって……」
『でも今のままではムリですよ。雑念に左右されているようではマダマダです。塔矢を全力で追いかけましょう。全てはそこから始まるのですから』
ヒカルは胸の前に回された佐為の腕にそっと自分の腕を絡め、そして力強く頷いた。
「うん、そうだ。全てはそこからだ」
『ええ、あせってはダメですよ。一歩一歩確実に……』
「一手一手慎重に……」
『そして塔矢を追い詰めましょう!』
「でもって塔矢を追い詰めてやる!」
最後はヒカルと佐為と二人の言葉が重なった。
二人は顔を見合わせて同時に肩を竦め、次の瞬間晴れやかな声で笑った。
『そうと決まればヒカル、今日のおさらいですよ』
「エーッ、これからぁ」
つと身体を離した佐為が腰に手をあててふんぞり返って言うのに、ヒカルは思いっきり不機嫌な顔をしてみせ抗議の声を上げた。そんなヒカルの態度に佐為も負けてはいない。こちらも秀麗な眉を思いっきり潜め『今日の貴方には心底腹が立っているのですよ。もう二度とあんなお粗末な碁は打たないように―――その為のおさらいです』とピシリと言った。
佐為のセリフはもっともで、図らずも納得してしまったヒカルは渋〜い表情で立ち上り、押入れから碁盤を引っ張り出した。
その夜、ヒカルの部屋の灯りは夜明け近くまで消え無かった。