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「おっ先に失礼しまぁ〜す」
ああ、知らず知らずのうちに言葉まで弾んでしまう。
俺――板東太朗(ばんどうたろう)、25歳独身。夕張出版第三編集部勤務――は、デスクの上を片付けるのもそこそこに愛用のバッグ(知り合ってすぐの誕生日に真理がプレゼントしてくれたもの)を片手に勢いよく編集部を飛び出した。
一瞬、遅れて追いかけてきた編集長の、
(吉野先生の原稿、忘れるナ!)
(明日から一週間は帰れないと思え!)
(頼んだこと忘れるなヨ!)
って声にも、ヒラヒラと手を振って、
「わっかりましたぁ〜」
と明るく答えてしまう俺だった。
何をそんなに浮かれてるのかって? よくぞ聞いてくれました。
それはね――――。
今日も今日とて昼飯を食い損ねた俺は(入稿前はいつもこうだ。毎度のことながら本当学習能力ないよな)菓子パンをくわえ赤ペン片手に某先生の原稿にチェックを入れつつ、
(ああ、真理(まこと)の原稿取りにいきたいなぁ……)
何てことを考えてた。
真理(PN 吉野真理:よしのまり)っていうのは俺の担当する作家の一人で恋人でもある吉野川真理のことだ。そう俺達は男同士で愛しあっちゃってるっていう訳なんだ。
今回は珍しく締め切り前に上がりそうだって、昨夜の留守電に入ってたんだ。
(こんな原稿ほっぽりだして真理んとこ行きたいなぁ……)
だって締切り明けだろ? ってことはサ……ね、仕事の邪魔しちゃイケないし、俺の仕事の方も詰まってたしで、え〜と、この間から数えて……ヒィ、フゥ、ミィ……4日もヤって……もとい、会ってないじゃないか!
ってなコトをつらつら考えてたんだよな。黙って作業してたつもりがブツブツつぶやいてたらしくてサ、
「板東さん? 板東さんってば。静かにしないと、編集長ニラんでますって!」
隣の席の電話番兼一般事務のエミちゃんが肘をつついて、耳打ちしてきた。
慌ててパンを飲み込みんで、積み上げられた原稿やら資料の山の間から盗み見た編集長は、ニラんでるっていうよりは難しい表情で何か考え込んでるって感じだった。でもってその視線は俺を……素通りしてて。俺は視線の行方を追いかけた。編集長の視線の行く先は俺のすぐ後ろの淀先輩の机だった。
「――――?」
そう言えば、ここ3日程先輩休んでるなよぁ。ちょっとやそっとのコトでは壊れないくらい立派なガタイで、1日、2日の徹夜も何のその元気が取り柄の先輩が休むなんて珍しいな、鬼の霍乱で風邪でも引いたかな……なんて別の事を考え始めたところに編集長から声が掛かった。
「板東、吉野先生の原稿取りに行ってこい。今日はそのまま直帰していい」
「……は?」
俺は耳を疑った。だって入稿一週間前だぜ? そりゃ何時もより原稿の集まりが良くて少しはラクだけど。おまけにまだ4時を回ったばかりで定時退社の時間までは2時間近く間があるって言うのに……だ。
編集長、正気か?
俺、悪いとは思ったけど編集長の前まで行って、額に手を当ててしまった。俺の仕草にも編集長は怒るどころか額に当てた手をやんわりと押し退けて、
「原稿もらいに行くついでに、淀の所を覗いてやってくれないか。家に居るはずなんだが電話に出なくてな」
と、神妙な顔で言ってサラサラとデスクにあったメモに先輩ん家までの地図を走り書きして、カギの束と一緒に俺に押しつけた。その時の編集長の顔付きをキチンと見てたら良かったんだろうけど、俺の頭の中では“直帰”ってコトバと真理の顔が踊っててそこまで見ている余裕はなかった。
編集部を出た俺はまず先輩の家を訪ねた。
編集部のある駅から地下鉄で3つ目。そこから歩いて10分程の緩やかな坂の途中にあるレンガ色の結構ハイソなマンションだった。
俺達の安月給でなんでこんな立派なマンションに住めるんだ?
――――ってのが目の前に聳えるマンションを見上げての素直な感想だった。
俺なんて未だに風呂無しのアパート暮らしだって言うのに。
俺は大学入学と同時に入居したアパートに今も住んでいる。
家賃も手頃だし、交通の便も悪くない。風呂がなくても特別不便は感じない。それに大抵風呂は真理の所で済ませてしまうし。バイトに明け暮れていた学生時代は勿論のこと、社会に出てからも俺にとってアパートは寝るために存在するもので生活の場ではない。真理と付き合いだしてからは、半分あっちが生活の場になってしまっている感もある。実際、一緒に暮らそうという話が出たこともある。しかし、一人になりたい時もある訳で、そんな時は、どんなにボロいアパートでも住み慣れた俺にとっては一番落ち着ける場所だったのだ。
『705 淀』ってネームプレートを確認してチャイムを鳴らした。
10回鳴らしても誰も出てくる気配が無い。「留守……かな?」と首を傾げつつ、11回目を鳴らそうと人差し指を伸ばしかけた時、ドア越しに微かに物音が聞こえた。
「先輩? 俺……板東です。居るんですか?」
隣を気にして遠慮がちに声をかけた。
「ああ……太朗か?」
って声と同時にドアが細く開いて先輩が顔を覗かせた。余りの顔色の悪さに思わず声を上げそうになった。真理には負けるけど先輩だってかなり上等の部類に入る男らしいルックスをしてる。身なりにもそれなりに気を使う人だ。そんな人が髪の毛はボサボサで目の下にはくっきりクマ作ってるし無精髭だらけだったんだから。修羅場に突入した時でもここまで酷くなったことはなかった。
「先輩、大丈夫なんですか? 具合悪いんじゃないですか?」
「ああ、大丈夫だ。別に病気って訳じゃ無い……」
「でも……」
「心配掛けて悪かったな、明日は出るから……じゃあ」
「あっ……先輩?」
取り付く島が無いって言うのはこのことで、言うだけ言ったら先輩は“バタン!”とドアを閉めてしまった。後は物音一つ聞こえない。
あんな幽霊みたいな顔して何が大丈夫なんだか!
そうは思ったけど少しでも早く真理に会いたい俺は、先輩の言葉を鵜呑みにして、一応編集長には電話を入れ、イソイソと真理の家へ向かったのだった。
先輩のマンションから真理の家までは地下鉄で一駅。歩いても15分足らずの距離だ。地下鉄に乗ると行き過ぎてしまうから、散歩がてら歩く事にした。
普段はデスクワークで部屋の中に閉じこもりがちだし、原稿を取りに行くのも社用車かタクシーを使ってしまうことが多い俺にとって、丁度いい運動になるって訳だ。
夕方の西日は眩しかったけど、こんなに明るいうちに帰れるなんて久し振りのことだったし、途中のスーパーで夕食の買い物なんかしたりしながら、タナボタで出来た時間を充分に満喫した。
これで真理が一緒なら言うことないんだけどな……。
洗剤のコマーシャルのように手を繋いで歩いてみたい……なんて実現できそうもない事を考えた。
仕事の邪魔をしないようにそっとカギを開けた俺はそのままキッチンへ直行する。張り切って買い込みすぎたスーパーの袋が腕に食い込んで痛かった。恐らくここ数日、原稿に掛かりっきりでロクな食事をしていないハズの真理の為に、腕によりをかけて美味しくて栄養のあるものを作ってやるつもり。一人暮らしが長いから料理の腕には自信がある。
材料を冷蔵庫へあらかたしまって、コーヒーメーカーをセットする。きっと疲れているはずだからまずはコーヒーで「お疲れ様」だよな。
夕食の下拵えが一段落した俺は足を忍ばせて仕事場に滑り込んだ。
壁紙もカーテンもブルーグレーで統一されていてゆったりと落ち着いた気分になれるこの部屋は俺の好きな場所の一つだった。
ベランダに面した窓際にシンプルなパソコンデスクが一つ、反対側にCDコンポと仮眠用のソファー。壁一面にしつらえた本棚には古今東西のミステリー小説や様々な資料が詰まっている。
恋愛小説からエッセイ、童話……と文章に関しては何でもござれの真理の専門はミステリーだ(こっちのPNは四国三郎)。ウチに書いているのはあくまでも俺の生活の為。それでもどの作家より完成度も人気も高い。人一倍高い真理のプライドのおかげだ。
毎月送られてくる出版物や本棚に収まりきらずに溢れてしまう資料は机の隣のBOXの上に堆く積み上げられている。本箱も雑多に詰め込まれているように見えてキチンとジャンル別になっている。どこにどんな本が入っているかは全て真理の頭の中にインプット済み。過去に何度か手伝ったことがあるんだけど、指示された所にちゃんと資料がある。ベッドの中では傍若無人な真理だけど、仕事に対してはスッゴク真剣で真面目だ(当たり前かぁ……)。
俺は真理の横顔が見える場所に座り込んだ。集中している真理は一心不乱にパソコンの画面をにらんでいて俺には気付きもしない。お陰で俺は久し振りに見る恋人の顔を心行くまで堪能することができる。<BR>
軽く潜められた眉、すっきりと高い鼻、肩にかかる淡い栗色の髪は、入力する時に邪魔にでもなるのか今日は後ろで無造作束ねている。何処から、どんな角度から見ても惚れ惚れするほど良い男だ。キーボードの上を滑る指は細くて長くて魔術師みたいだ。あの指が数々のベストセラーを生み出してるんだよなぁ……。昔のお嬢様じゃないけどサ、箸よりも重いものを持ったことがない様なキレイな指。でも俺を泣かせることにかけては天下一品で……。
あの指で身体のあちこちを撫でられると俺は……。
「っん……うぅん」
あっ! そうじゃ無くて……もっと……。
「――――えっ?」
真理の指先を見つめているうちにイケナイ妄想に掴まってしまった俺は、我に返って驚いた。
抱きすくめられてキスされて(しかも思い切りディープなヤツ!)いた。
慌てて体の上にある物体を押し退る。
「……まっ、真理? 何してんだよお前! 原稿は?」
「今、プリントアウト中……それよりおとなしくしてろ……」
うっとりと囁くように言いながら手はせわしなく俺のTシャツの裾をたくしあげている。
原稿が上がった後はいつもこうだ。
取りあえず近くにいる人間を見境なしに押し倒す真理の癖。一種の現実逃避ってやつで……放っておくと行き着くトコまで行ってしまう。浮気なんかされてたまるかとばかりに、俺は仕事が上がりそうだと聞けば何をおいても駆け付ける。それが自分の所の原稿でなくてもだ。
俺がどんなに抵抗しようとも許してなんかくれない(まあ、抵抗なんてあんまりしたことは無いけど)。おまけに真理は華奢に見えるクセして驚くほど力は強い。
―――で、俺は身を任せてしまう……。
原稿が上がるまでは互いに気を使い合って禁欲生活をしているから余計、歯止めが効かなくなるってのが本当のところだ。
何時もならそのまま流されてしまう俺も今日のところは心を鬼にして、
「真理、ちょっとタンマ! オレ、今日は時間たっぷりあるんだ。だから……あっそうだ、コーヒーできてるヨ!」
そう突っ撥ね、なおも抱き締めて身体をまさぐってくる奴の腕を何とか引き剥がし、憮然とした表情を浮かべる顔を引き寄せ、なだめるような軽いキスをする。それからそそくさと身体の下から這い出した。
だってそのままじゃあ………ね。
俺だってガマンしてんだから、真理にもガマンしてもらわなくっちゃな。
焦らなくても時間はまだまだあるんだから。
リビングのお気に入りのソファーに座ってコーヒー飲んでる間も(俺がキチンと理由を説明したにも関わらず)真理はぶつぶつ文句をたれている。
君の気持ちはよ〜く判る、俺だって同じ気持ちだから。でもサ、これからの時間のためにも腹拵えは必要だと思うんだ。途中で体力なくなったらねえ、やっぱイヤじゃんか。
心行くまで楽しみたいもん俺。
俺は忙しくキッチンの中を動き回りながら真理に声をかけた。
「なあ、それ飲んだら風呂にでも入ってくれば? さっぱりするよ」
ウジウジ、グダグダ言いながらも真理は言葉に従ってくれた。
う〜ん、こんなに素直な真理って好きだな!
気持ちイイ!
あっ、でも風呂場に消える前にしっかりディープなキスかますのは忘れなかったけど……。
トマトとバジルのコールドパスタ、シーフードマリネにヴィシソワーズ(これは缶詰)それにワインって食事を終えて、片付けは後回しにした俺はシャワーを浴びた。
食事が終わってもまだ七時だ。夢みたい、なんだか心がウキウキする。
真理も風呂に入ったら付き物が落ちたみたいにおとなしくなって、久し振りの食事も話が弾んだ。
何をしようかなぁ……。
飲みながら話をするのもイイし、ビデオを見るのもイイ。そして最後のお楽しみ……。
こんなに明日が遠いなんて何日振りのことなんだろう。
バスタブに体を沈めながらあれこれ思い悩んだ俺の細やかな考えは見事に裏切られた。
風呂から上がってみるとテーブルの上はキレイに片付けられていて、リビングのテーブルには氷とブランデーのボトルとグラスが並べられていた。ご丁寧に照明まで落として、いつもはサイドボードの上に置いてある飾り物のランプに火が灯っていた。
ランプのあった場所には見慣れない置物みたいなのがあった。
真理がやったんだよなぁ? 信じられないけど……。
何か裏がありそうな気がする……。
「……ん?」
髪の毛を拭く手を止めて俺はクンクンと鼻を鳴らしてしまった。仄かにいい香りがリビングの方から漂っていた。
何だろう?
心が落ち着くって言うのか、妖しげな気分になるって言うのか……とにかく不思議な感じの香りだ。
「太朗どうした? 突っ立ってないでこっちへ来いよ……」
ソファーにもたれてブランデーを嘗めていた真理が空いている方の手でポンポンと自分の隣を叩いてる。俺は髪を拭くことも忘れてフラフラと香りに誘われる蝶々のように彼の元へ歩み寄った。
腰を下ろした途端、引き寄せられて口移しにブランデーを飲まされる。口の中で転がされたブランデーは生暖かくて不味いはずなのに立ち込める香りのせいか俺の神経は麻痺してしまったみたいだ。抵抗する気も起こらない。そのまま押し倒されてガウンの前をはだけられる。
裸の胸のあちこちにブランデーを垂らされて、それを真理が舌先ですくい取る。
繰り返し、繰り返し……。
「あっ……んっ……」
ヒヤリとするブランデーと暖かく柔らかい真理の舌とに何とも言えない快感が背筋を駆け抜ける。四日も放っておかれた体はちょっとした刺激にも敏感に反応してしまう。すっかり元気になってしまったオレをブランデーを含んだ口で包まれて、冷たいんだか熱いんだか判らない感触に我を忘れた瞬間、俺は弾けた。<BR>
解放後のけだるさに荒く息をつく俺の耳に「ゴクリ」と真理が口の中に溢れた精液を飲み下す音がやけに大きく聞こえた。
ゆっくりと顔を上げた真理は額に張り付く神をかきあげながら濡れて光る唇を舌先で舐めた。その仕草はゾクリとする程、妖しく艶かしい。さっきイッたところと別の場所が真理を求めて蠢きだす。<BR>
俺は身体を起こすと膝立ちになった真理の股間に手を這わせ、迷わず口の中に取り込み夢中でしゃぶった。
「………うっ!」
真理が小さくうめき声を上げて俺の髪をかき回しながら後ろに手を伸ばして淫らにヒクつく場所を探ってくる。
不思議な香りは部屋中に溢れ、いやが上にも官能を刺激した。
もう、何がなんだか判らない………。
「ああっ――――」
我に返った時、俺は真理に深々と貫かれていた。
体の奥深くに真理の力強い脈動を感じながら弾む息の下でその頭を引き寄せた。
「真理、何かヘンな気持ちだよ。痛いんだかイイんだか……何? この香り……」
「アロマテラピー……」
真理が耳を嘗めながら吐息で答える。
「アロマ……テラピー?」
「今、流行ってるらしい。リラックス法の一種とでも言うのか? 知り合いの編集が教えてくれたんだ」
ふ〜ん。そんな風に教えられてもこの状況じゃ俺の頭には入ってこない。体の奥で生まれた言いようのない痺れにも似た快感が、そこを中心に体中に広がり始めてじっとしてなんかいられない。早く先に進みたくてしょうがないって体が訴えてくる。
「今日の香りは心の安らぎと……官能を刺激する、らしい……」
自分の手の中でビクビクと震えるオレの反応を楽しみながらからかう口調で真理が続ける。頭では理解しようとしてるんだけど最後の時がすぐそこまで迫っていて反論よりも快感を追い求める自分が情けない。
どうして真理はこんなに余裕があるんだろう?
焦れて俺は自分から腰を押しつけねだるようなしぐさをしてしまう。
それに応えるかのように真理はゆっくりと腰を使い始めた。
「あっ、あっ……」
真理の手と真理自身と香りの三位一体の攻撃に、一度達しているにもかかわらず俺は敢え無く陥落してしまった。
悔しい……なんで俺だけなんだ。
顔を背けて唇をかみ締めた俺のアゴを捕らえて真理が口付けてくる。
「そんなに良かったか、太朗。次は俺の番だな。よしっ!」
掛け声と共に引き起こされた俺は真理の体を跨いで座った格好で向かい合ってしまう。
俺の大好きな顔が間近に見える。
仕事に熱中している横顔もこんな風に俺を翻弄している顔も、どんな時でも真理は綺麗だ。
綺麗なんて男に対して使う形容詞じゃないことは十分承知しているけど、本当に見惚れてしまう。でもその形の良い唇から吐き出される言葉は憎たらしいことこの上ないんだけど……。
「今度は、太朗が動いて……」
ほらね?
フンって言いたいんだけど、この格好じゃね。だってさらに奥深くまで入ってしまっている真理がクイって腰使ってくるだけで泡立つような感触が背中を駆け抜けるんだから、言われなくても当然のこととして俺は自分から腰を使ってしまうことになるんだ。さらに深い快感を得たくて……ね。
「……ああ! 真理ォ」
下から突き上げてくる真理のリズムと俺のリズムがピッタリ合った瞬間、俺は真理に思い切りしがみついて背中をのけ反らせていた。
目が覚めた時、俺の隣はもぬけの空だった。
この部屋に越して来た時、男2人でもゆっくり休めるようにと真理が購入したキングサイズのウォーターベッドに俺は一人で寝転がって、カーテンの隙間から差し込む朝の光を浴びていた。
昨夜、いつベッドに入ったのか記憶も定かでは無かった。
でも、気分は爽快、体もバッチリ軽い。
「真理! 真理!」
起き上がって呼んでみたけど返事はなし。何処からも人の気配はしなかった。ベッドサイドのデジタル時計に目をやった。
7時15分?
何時もなら真理はまだ眠りの中にいる時間だ。こんな早くに一体、真理は何処に行ったんだ?
首を傾げつつ素肌にシャツを羽織ってリビングに続くドアを開ける。
やっぱり真理はいない――――。
ウ〜ン、こんなんじゃ昨夜のことが夢だったのかと思ってしまう。けど、俺の体の奥にはしっかり真理の名残が感触として残っているし、体中のあちこちに真理がつけた印が散っているし……。
腕組みをしてキッチンを歩き回って、何気なくテーブルに目をやる。
エッグスタンドを重し代わりして紙切れが一枚挟んであるのに気が付いた。
手紙だ――――。
手に取って眺める。
相変わらずきったねー字。
フロッピー入校だからって、全くといって良いほどペンの類を握らない真理は信じられないほどの悪筆だ。長い付き合いの俺でさえ、判読に苦労するくらいだった。
手紙の横にはコーヒーがサーバーに入ったまんまで冷めていた。真理が入れてくれたんだろうな、きっと。せっかくだから温め直して、ゆっくりとイスに腰を下ろして手紙っていうか書き置きに目を落とす。
“急いでるから手短に言う。
今日から一週間、取材旅行で留守にする。
行き先は、北海道日高。
連絡先は日高観光ホテル
TEL 0××―×××―××××”
夏の北海道かぁ―――。
取材とは言え優雅だよな……。
あ〜あ、俺も行きたい!
コーヒーを啜りながらつぶやいた。
でもこの文章は俺が組み立てたものだ。真理の書き置きはミミズがのたくったような字で書きなぐった、三行だけだった。
一週間か。長いよなぁ。
その前は4日会えなくて、昨夜で、今日から又、一週間会えないのか……声も聞けないなんてな〜んかつまんない。
でも俺だって今日から取りあえずカンヅメだしな。まあ、いいか。
やっと自分をなだめて納得して……。でも、真理の付けたキスマーク、一週間消えなきゃいいのになぁ……ナンテ、女々しいこと考えながら着替えて、出がけに留守電のセットしといてやろうと電話の前に来た時『留守電あり』のボタンが点滅していることに気が付いた。
(勝手に聞いたりしたら悪いかな?)
と思ったけど、急ぎの用事だったら知らせなきゃいけないと思い返してスイッチを押した。
流れてきたのは――――。
『太朗おはよう。昨夜、言い忘れたが俺は今日から一週間北海道だ。毎晩11時に定時連絡入れるから、家に帰れなくても留守電は必ず聞くこと。返事を入れておくことも忘れずにな。何かあったら携帯鳴らしてくれ、いいな! それと……愛してるよ、太朗』
なんて恥ずかしい奴……。
俺は一人で赤くなる。
でも……嬉しい。
バックに発車のベルが聞こえたから、きっと東京駅からだ。発車間際の忙しい時間に……。
俺ってば愛されてるじゃん!
気分よくマンションを出た俺は、思い立って先輩の家に寄った。
チャイムを鳴らしても出てくる気配が無かったので一安心。
「約束通り、出社したらしいな……」
俺は足取りも軽く編集部へ向かった。
「―――っはようございま〜す」
元気よくドアを開ける。
時計の針は9時。
やったね定時出社だ。
なんて自分を褒めながら自分の席に移動。
すかさず隣の席のエミちゃんが俺の腕から抱えていた封筒を奪い取る。
「編集部でバイトしてるメリットって、生のゲンコーが一番に見られるってことですよね。あ〜憧れの吉野先生の原稿だ!」
なんて独り言を言いながら引き摺りだした原稿に頬擦りしている。半ば呆気に取られながら俺は周りを見回した。
編集長とエミちゃんを含めて六人しかいない編集部でも結構うるさいんだけど、今日はいやに静かだ。それもその筈、部屋には俺とエミちゃんしかいない。
「エミちゃん、みんなは?」
問い掛けた俺を思いっきり無視してエミちゃんは原稿を読み始めていた。
おっと、エミちゃんは集中力が凄いからこのままではいけない。
俺はエミちゃんから原稿を取り上げて軽くにらみ付ける。
「俺の質問に答えてからね、エミちゃん!」
「エ〜そんなぁ、ズルイですよ、板東さん」
敵もさるもので涙ウルウルのブリっ子モードで対抗してくる。
その手には乗らないよ。長い付き合いだ、それもポーズだって判ってるさ。
「答えてくれたら読ませてあげるから、いいね」
エミちゃんは拳を口に当てたままコクリとうなずく。
うん素直でよろしい。女の子は素直なのが一番なんだ。
「編集長や他のメンバーは?」
「編集長は上の会議室で打ち合わせです」<
「そっか、次の号のだな」
「……だと思います。で、桂さんと相川さんは原稿取ってから出社だと連絡が入ってました」<BR>
メモを読み上げる様に答えてエミちゃんはサッと手を突き出した。読ませてくれと言うことらしい。でもまだダメだな。
俺は原稿を背中に隠して質問を続ける。
「淀さんは来てるだろ? どこ行ったんだ」
「まだですよ。何も連絡はないですけど……」
「えっ?」
エミちゃんの言葉に何とも言えないイヤな感じがした。
瞬間、昨日の先輩の顔が俺の脳裏をかすめた。
胸騒ぎがする。何かとんでもない事が起こっているような――――。
俺は別に霊感があるわけじゃない。そういったものを信じる方でもない。でも一度胸の中に広がった不安はそう簡単には消えてくれなかった。
まあ、いいか。確かめてみれば良いことだ。もし何もなかったら、取り越し苦労だったと笑えば良い。
「エミちゃん、俺、もう一度、先輩んトコ覗いて来る。ソレ読んでていいからチェック入れといて。それからイラストレーターから電話あったら携帯鳴らして、いいね」
早口でそう言って真理の原稿をエミちゃんに押しつけると、呆気に取られている彼女を残して編集室を飛び出した。 |