素直な気持ち
Part 1
優しい温もりの中に包まれている。
締め付けるほどに抱き締めてくる腕の力強さが心地いい。
けれど抱き締められるだけじゃ物足りなくって、先を促すように潤んだ瞳で見上げると、期待に応えるように濡れて光る唇がゆっくりと降りてくる……。
ピピピピッ……。
(……もう少し…)
瞳を閉じて甘い唇待ちうける僕の背後で、祝福の鐘の音がガン、ガン、ガン………。
(ガン、ガン、ガン? え?――ヤバッ!)
僕は慌てて飛び起きガバッと布団を捲って股間を覗きこんだ。
(セーフ!)
何とか暴発は免れた――とホッと息を付き、目をやった枕元の時計は午前7時を指していた。
幸せな夢を寸前でぶち壊してくれたのは、目覚まし代わりのフライパンの音だ。
こんなことしてる場合じゃない。
夢の余韻に浸る暇なくベッドをでた僕の耳がキャッチしたのはキッチンのドアがあげる悲鳴と階段を上ってくる荒々しい足音。
目覚しが鳴ってからきっかり5分。
(いつもながら正確だ……)
パジャマを脱ぎ捨てながらながら僕はこっそり舌を出す。
「七! 時間だゾ起きろ」
カッターを取り上げて無駄だと思いつつ反対側のベッドで枕を抱え込んでいる七海(ななみ)にも声をかける。
「……んっ……」
夢見心地で呟いて寝返りをうち、起きる気配を全く見せない姿を横目に、変わり栄えのしない学生服に腕を通す僕の後ろでバタン! と勢い良く部屋のドアが開いて「おはよう、大海(ひろみ)! 七海!」の声が部屋一杯に響き渡った。
鬼より怖い永海(えみ)姉さんの登場だ。
「おはよう、姉さん」
僕は笑顔で返して学校へ行く準備を整える。といっても入学してからまだ4日、おまけに今日は金曜日で生徒総会とホームルームだけだから用意するものなんて特別にない。
そして放課後には憧れのバレーボール部の入部テストが待っている。
僕の様子に満足そうに頷いた姉さんは、こんもりと盛り上がっている七海のベッドに目をやって思いっきり眉を顰めたと思いきや、ツカツカとベッドに歩み寄り力任せに掛け布団を剥ぎ取った。
次の瞬間「キャァ〜!」と部屋一杯に響き渡った絹を引き裂くような叫びは姉さん――じゃなくて七海の声だった。
一体何事? と振り向いた僕は目を丸くした。七海が裸の上半身に布団を巻きつけて姉さんを睨みつけていたからだ。
しっかり自己主張している下半身丸出し……という実にマヌケな格好で――。
「な、なな、何だよ」
顔を真っ赤にして迫力の無い睨みを効かせる七海を姉さんはジロリと見やり「おはよう、朝から元気のいいことね」と余裕の笑みを浮かべ、
「とっととその粗末なものどうにかして、支度しなさい!」
顔色一つ変えずビシッと言い切り、見る間に元気を失って行く七海のイチモツをバシッと叩いて出て行った。
(お見事……)
僕は呆然と背中を見送る。
七海は唸り声を上げながら股間を押さえてベッドにひっくり返った。
「大丈夫か?」
丸まった背中に声を掛けると微かに頭が上下した。大事なところに受けたダメージの大きさは僕にも解るけど同情してやるいわれはない。それこそ小学校の時から続いてる朝の恒例行事なんだから、いい加減学習しない七海が悪い。
「何、考えてんだよ。さっさとしないとメシ、食い損なうぞ」
「だって……イイとこだったんだから……」
口を尖らせてベッドに起きあがった七海は、目尻に溜まった涙を拭いノロノロと着替えを始めた。
(僕だってあと一歩ってとこだったんだ。お前にだけイイ目、見せてたまるかよ!)
心の中で呟いて「お先!」と部屋を出た。
「おはよう……っと、母さん?」
ダイニングに続くリビングのソファーから突き出たものに足を引っ掛けて立ち止まる。見ればウチの大黒柱が白衣のままで転がっていた。
「しぃ〜静かに! 寝たのさっきなんだから」
足音を忍ばせて椅子についた僕に唇に人差し指を当てて姉さんがトーストを差し出した。
「昨夜も?」
トーストにバターを塗りながら尋ねた僕に姉さんは「そう今朝まで、立て続けにね」と指を三本立てて見せた。
「そりゃ大変だ。母さん、お疲れさま」
トーストにかじりつきながら母さんを振り返る。
一晩かけてこの世に三人の新しい命を送り出した先生は大股開きで寝息を立てている。
母さんは産婦人科の医者なのだ。
「悠海(ゆみ)、何時までやってんの。遅刻するよ!」
たった今、静かにって言ったことをすっかり忘れて姉さんは声を張り上げる。
「ああ、もう! 全然、髪型決まんない!」
ブツブツ文句を言いながら顔を見せたのは、一つ上の悠海。それ押し退けるように七海が現れ、椅子に座るやいなや、
「ハラ減った! 姉さん早く、早く」
と、催促の声を上げる。
「あっ、あたし時間ないからオレンジジュースだけ飲んでく。あとは七にあげる」
言うが早いかオレンジジュースを一息で飲み干して悠海は制服の裾を翻しキッチンから駆け出していく。
「ダイエットも結構だけど、ちゃんと食べないとレッスン中に倒れても知らないよ!」
背中に掛けた声は一瞬遅くドアに跳ね返された。悠海に逃げられた姉さんは忌々しげに舌打ちすると今度は七海に矛先を向けた。
「七海も、いい加減にしなさいよ! あんたのはそこに用意してあるでしょう」
意地汚く悠海の皿に伸ばした手を容赦無く叩かれて七海は恨めしげな目で姉さんを睨む。
「……うん……」
小さく唸って身動ぎした母さんに3人揃ってソファーに目を向ける。本当に疲れているんだろう、母さんは狭いソファーで器用に寝返りをうつと豪快ないびきをかき始めた。
僕達は顔を見合わせ密かに笑い合う。
これが僕の家族。
父さんはいない。
外国航路の船医をしていた父さんは、僕と七海が母さんのお腹にいる時、海難事故に巻き込まれ南の海で死んだ。
二人が出会ったこの街に『上坂レディースクリニック』を開いた母さんが女手一つで僕達を育ててくれている。
二人は学生時代に海で出会って恋をした。
僕達の名前に『海』の字が入っているのはそのせいなんだって。
何度も聞かされたけどすごくロマンチックな恋物語だ。
僕にもそんな相手が現れるんだろうか。
いや、運命の人にはもう出会ってしまった。
きっとあの人がそうだ。
夢にまで見た人に会える。夢が叶う。
考えただけで僕の胸は高鳴り始めるのだ。
イソイソとオムレツにフォークを突き立てようとした僕を止めたのは七海の大声。
「あーっ、オレも大海と同じのがいい」
「なに言ってるの! アンタはいつも目玉焼きでしょう」
「それは悠海のがあるもん。今朝はオムレツがイイ!」
言い張る七海にため息をつきながら姉さんが僕を見る。
「僕はいいよ、姉さんソレ頂戴」
僕は心得たもので小さく頷いて手を伸ばした。それを横合いからかっさらった七海は、
「大海、お前そっち食って。オレ、できたてのがイイ」
と顎で悠海の皿を指した。
「七! いい加減に……」
堪忍袋の緒が切れたのか、ついに大声を張り上げようとした姉さんを僕は止めた。
「僕はいいよ。腹の中に入れてしまえば同じだし。それより早くしないと……」
冷めた目玉焼きを手元に引き寄せ、チラリと壁の時計に目を走らせた僕は朝食を片付ける作業に没頭した。
大体、姉さんはカリカリしすぎだ。七海のわがままは今に始まったことじゃない。
僕より三分遅く出てきた七海は小さくてとにかく手の掛かる子供だった。皆が寄って集って世話を焼いたものだから未だに家の中では王様だ。今じゃ身長も体重も僕とほとんど変わらないけれど、甘やかされ放題に育ったクセは抜けないようだ。言うこと成すこと全てが自分中心に回っている。それが外でもまかり通ってしまうから七海のわがままはいつまでたっても治りゃしない。とは言え、僕だって七海にはかなり甘い。別に兄貴だからって言うわけでもない。全身で甘えてこられたら『仕方ないなぁ』と思うのだ。つい手を貸しているし、譲ってしまう。我慢してるつもりはないけど、時々、ズルイと思うこともある。
言いたいことも、やりたいことも七海に負けないくらいある。
今日限り七海の事なんか知らないから――って朝ご飯食べながら力む事じゃなかった。
「いっけない! もうこんな時間だ。ごちそうさま。行って来ます」
パンくずを払って立ちあがりカバンを手にした僕に姉さんが胸を指差した。
(あっ! 忘れてた)
僕は学生服の胸ポケットから取り出した眼鏡を掛ける。
別に視力が悪いんじゃない。これは僕と七海を区別するためのダテ眼鏡だ。
一卵性だけあって僕達の外見はそっくりだ。家族が間違うことは無いけど、他人はそう言うわけにはいかないらしい。七海と間違えられる事もしばしばで、しかもそれは僕にとっては有難くないことばかりだったから自衛手段のつもり。だって進学先が一緒だなんて思ってなかったもんな。アイデアの提供者は姉さんだ。長男長女で通じるものがある彼女は僕の理解者の一人なのだ。
でも慣れないから忘れることの方が多い。
満足げに頷く姉さんに弁当を手渡され、ついでに「しっかりね」と激励の言葉も頂いて僕は玄関を飛び出した。
ウチの病院は閑静な住宅街の入り口の駅に続く表通りに面して建っている。いつもはうるさいぐらいなのに土曜日の少し早い時間だからか人通りも車の通りもまばらだった。
坂下に目をやってもバスの影は見えない。バスを使わずに歩きでやってくる学生の姿もチラホラといった程度だった。
入学祝いに姉さんがくれた七海と色違いのGショックに目をやる。
バスの時間をそれほど過ぎてはいない、でもこんなに空いてるんじゃ時間よりも早く行ってしまったのかもしれないな。
(一目でいいから見たかったのにな……)
ほんの少しガッカリして僕は坂上に向かって歩き始めた。
僕の通う高校は家から歩いて7〜8分の所にある『甲陵(こうりょう)高校』。
県内の公立高校で唯一の男子校だ。歴史も12校ある中で3番目に古く制服も昔ながらの詰襟だ。
緩やかな坂を登りきり、三叉路を右に曲がると蔦の絡まる古めかしい正門が見えてくる。
そこでバスが僕に追いついた。並んだバスの窓を無意識に見上げた。
(あっ! いた! 神野(こうの)さんだ!)
ひしめき合うむさ苦しい男子生徒の中で彼の周りだけが光って見える。
初めて見たのは中学二年の時。
インターハイ予選の県大会、土壇場で出てきた彼は、多少強引とも思える試合運びで並み居る強豪を蹴散らしてベスト8をもぎ取った。
結局、昨年も彼はギリギリの所で出場権を逃してしまったけれど、彼の姿はしっかりと僕の心に焼きついてしまった。
初めは彼のプレーに惹かれてた――と思う。
僕にはない思いきりの良さと押しの強さ。それは時には自分勝手にすら見えたけど、彼のプレーには迷いが無かった。憧れだったものが何時『恋』に変わったのか……それは僕にも判らない。気がつけば頭の中は彼の事で一杯だった。僕も彼も男だけれど、不思議なことにヘンだとかオカシイとか思ったことは無い。異性を好きになるように僕の中では自然なことだった。
神野さんが僕に笑い掛けてくれる。
神野さんが『大海』と僕の名前を呼ぶ。
僕がトスを上げると彼のしなやかな腕が弧を描いて鋭いアタックが相手コートにつき刺さる。うなだれる相手選手を尻目に僕と神野さんは抱き合って喜びを分かち合う――。
それからそれから……僕の妄想は留まることなく日毎に膨らみつづけ今では毎夜、夢に見る。そして毎朝慌てて飛び起きる。今朝のみたいに。まだ、キスもしてないけどさ。
もうどうしたら良いんだろう……。
ありもしないことを考えて興奮するなんて僕は相当オメデタイヤツかも……。
「何、難しい顔をしてるんだ? ええ? 名前だけは大きい“大海”君」
幸せな自分の世界に浸っていた僕を突然現実に引き戻すように足元に長く伸びた黒い影は顔を見なくたって誰だか解る。“大”の字が名前に2個も使われていて、それに負けない190cm、85kgの立派な身体を持つ幼馴染みの大林 大樹(おおばやし だいき)だ。
ほっといてくれ! と僕は大樹を睨む。
何も僕がチビな訳じゃない。高校生の平均身長はちゃんとクリアしてるんだから。大樹が成長し過ぎてるだけだ。それに名前の“大”は大きいだけじゃなくて『海のように懐の深い男になるように』って意味がある。
父さんが付けてくれた名前だ。
僕は気に入っている。でも、こんなつまらないことで腹を立ててるようじゃ、まだまだ名前負けしてるかも……。
おはよう、と声を出すより早く大樹が「なるほど、そう言うわけか。今のは難しい顔じゃなくて幸せだって顔なんだな」としたり顔で頷いた。
感情表現が素直な七海と違って僕は感情が表情に現れにくいらしい。今みたいなコトを考えていても、幸か不幸か他人には至極真面目な顔をしているように見られてしまう。大樹は微妙な表情の変化を見取ってくれて僕が何を考えてるかを理解してくれる貴重な友人だった。
僕らの遥か前方にバスから降りる神野さんの姿が見えた。右隣が部長の行岡(ゆきおか)さんで左隣がセッターの春日(かすが)さん。無名の甲陵バレー部を県3位に導いた立役者だ。
(何時見てもカッコイイや……)
「ホラ! 何、ボケッと見てんだよ、行くぞ。早く追いかけないと声、掛けらんないぞ」
ボーッと見惚れている僕の手を大樹が引っ張って走り出す。
「ちょ、ちょっと大樹……」
戸惑い気味に声を出した僕に「何?」と大樹が立ち止まった。
「……まだ、心の準備が――」
「まぁだ、そんな消極的なこと言ってんのか」
「だって……」
「だってもクソもないだろ。お前は先輩が好きなんだろ」
呆れたように呟く大樹に僕は首を縦に振る。
「だったらサ。行こうぜ?」
「でも、放課後入部テストで会えるしさ」
「だからだろ? 勝負は先手必勝。恋もバレーボールも同じだよ。印象付けとかなきゃ、俺達が楓(かえで)二中の最強コンビだってことをさ」
大樹の言うことはよく解るんだけど、情けないことに本人を目の前にすると僕の決心なんて脆くも崩れ去ってしまう。
「どうして僕の為にそこまで一所懸命になれるんだよ? 普通は止めるだろ?」
「別のヤツだったら止めてた」
サラリとこぼれた大樹の言葉に僕は首を傾げる。
僕だと同性を好きになっても不思議じゃないってことなのか? それって、あんまりじゃない?
「お前とは長い付き合いだけど初めてなんだもんよ、そんな嬉しそうな顔見るの。真面目くさった顔もイケてるとは思うけど、断然そっちのがイイ。それに隠さずに打ち明けてくれたことも嬉しいし。だから協力してやる。お前が七海みたいなヤツだったらテメーで何とかしろって言ってたさ俺は」
と、大樹は鼻の頭を掻いた。
(サンキュ)
僕、お前に打ち明けて良かったってホントに思うよ。
「おっ、今度はありがとうって顔だな。でもお前の為だけじゃないんだな、これが。ついでに俺のことも印象付けとけばイイかなって思ってさ。だからな、急ごう?」
茶目っ気たっぷりに大樹は片目を瞑った。
「オレがなんだって?」
いつの間に追いついてきたのか、七海が僕たちの間に割り込んできた。
(ゲッ! 今の会話聞かれた?)
コイツが関わるとロクな事にはならないって事を大樹だって知ってる。僕と大樹は素早く顔を見合わせる。
「……別に」
答えた大樹に、ふ〜んと言う顔をしてみせた七海は次の瞬間「あっ! あれって神野さんじゃん」と呟くと僕と大樹の間から背伸びして叫び声を上げた。
「こうのセンパァ〜イ」
余りの声のデカさに回りの生徒たちが足を止めて振り返る。勿論、神野さんたちも。
又も僕らは顔を見合わす。
(コイツがなんで神野さんを知ってんの?)
僕らの事はお構いなしに更に七海は両手を振りまわす。
「オレ、楓二中の上坂って言います。よろしくお見知りおきを〜」
おまけにデカイ声で自己紹介をし始めたりなんかして。
クスクス笑い声が広がり始める中で、神野さんたちは顔を見合わせると僕達の方へ駆け寄ってきた。
(うっわぁ〜、ホンモノだよぉ、どうしよう)
心構えができてない。
心臓が口から飛び出しそうになって僕は慌てて大樹の後ろに周り込んだ。
「楓二中の上坂?」
最初に口を開いたのは行岡さんだった。大樹に負けず劣らずデカイしゴツイ。この人と神野先輩の二枚ブロックは鉄壁って噂だ。
「じゃあ、君が大林君?」
続いて大樹に目を向けたのは春日さん。反対にこの人は運動部ってことが俄かに信じられないくらい華奢な人。でも正確無比なトスをどんな態勢からでも上げられるチームの司令塔だ。
僕もセッターだからライバルだ――ってのはちょっと図々しいかな?
「そうですけど……」
聞かれた大樹は背後の僕を気にしつつ返事を返す。
「やっぱりそうか。入部届見た時そうじゃないかとは思ったんだ。良かったな陸」
肩を行岡さんに叩かれた神野さんは満足そうに笑って「お前ら、放課後入部テスト受けに来るんだろうな」と確かめるように聞いた。
「勿論だよ。オレ、神野さんと仲良くなりたかったんだ、よろしくね」
ニッコリ笑って馴れ馴れしく手を握った七海に気を悪くする風もなく神野さんは「楽しみに待ってるからな」と頷いて、じゃあ放課後、と二人を伴って背を向けた。
僕には一言も無かった。というより僕なんか目に入ってなかったような気がする。大樹の陰にいたから気付かれなかったんだろうか。ちょっと、いや、かなりショック。楓二中自体は強いチームじゃなかったけど、僕と大樹は少しは知られてると思ってた。それに七海の方が知られてるってこともショックだった。小学生の時からやってた僕と違ってコイツがバレーを始めたのは中学三年になってからだったし、部活もサボってばかりでちっとも真面目じゃなかったし。さすがに運動神経は良かったのか上達するのは早かったけど……。
そう感じたのは僕だけじゃなかった。
「お前、マジな訳? 真剣にバレーをやりたいんだ?」
大樹が不思議な顔で聞いていた。
「そうだよ。オレ、神野さんが居るからこの学校選んだんだもん。神野さんと仲良くなるのがオレの目標」
あっけらかんと言った七海の言葉が重い石みたいに心の中に落ちてきた。
こういうところで七海のスゴサを見せつけられる。思ったことをストレートに言える七海と、考えるばかりでイザとなると尻込みしてしまう自分。比べても仕方ないのに比べてしまう。これまでは羨ましがってた。
でも、今回は譲らない。
僕だって本気なんだからな――――。
密かに身構えている僕には気付かず、七海は「あっ! 森本だ」と見知った顔を見つけると「じゃあオレ行くね。のんびりしてると二人とも遅刻だよ」
ポンと僕と大樹の背中を叩いて慌しく駆け出していった。
「……以上の者が合格者だ。他の者はご苦労様だった、解散! 10分休憩の後、ロードワークに出るから」
行岡部長の声も、部員のブーイングも僕の耳を素通りしていく。
呼ばれた中に僕の名前はなかったのだ。
当たり前と言えば当たり前の結果だ。
今朝の七海の言葉が頭の隅にこびり付いて離れず、集中力を欠いたせいだ。
テストが始まる前、入部希望者の前で神野先輩は言った。
「俺達が必要としているのは即戦力になる人材だ。一から手取り足取り教えてやることは出来ない。何故なら今年は県大会全勝優勝でインターハイに行くからだ。従ってテストは相当厳しいし手加減するつもりも無い。それについて来れないと思うヤツは今、この段階でやめておくことを勧める」
かなり高飛車なこのセリフに約3分の1が居なくなった。そして最初の基礎トレで残っていた中の半分がリタイヤした。
先輩の言葉に嘘は無く、テストはハンパじゃなくキツかった。それでも、負けるものかと僕は歯を食いしばった。後半はレギュラーメンバー相手の試合で、運の悪いことに七海と僕は同じチームに入れられた。
同じコートの中の七海と僕。
調子良くプレーする七海、対する僕は凡ミスの連発……。
「俺達を嘗めてるのか! やる気が無いなら今すぐコートから出て行け! 他の奴等の邪魔だ!」
僕に向けられた神野先輩の一言に身が竦み、必死で保っていた気力がプツリと切れた。
(やる気がない訳じゃない!)
(こんなの僕じゃない!)
言いたい事は山ほどあるのに言葉が出てこない。縋るようにネット越しに神野先輩に目を向けた僕に返ってきたのは「なんだ、その反抗的な目は」と吐き捨てる様な台詞。
(誤解だ……)
睨んだ訳じゃない。
一番悔しいのは自分なのに判って貰えないことが辛い。
誤解を招く自分の表情が恨めしい。
何も言えずに唇を噛みしめてコートを出た。
それでも体育館を出て行くことがえきずに、未練がましく僕は壁際に座って試合を眺めていた。
眼鏡が涙で曇っていた。
テストに合格できなかった者が三々五々体育館を出ていっても僕は立ちあがることすらできなかった。
「どうしたんだ大海。お前らしく無い。どっか身体の調子でも悪くなったか?」
流れ落ちる汗を拭きながら大樹が声を掛けてくれても僕は一言も返せない。
そんな僕に神野先輩が興味を示すはずも無く、10分の休憩の後、めでたく入部できた者達を引き連れてロードワークに出ていった。隣にはちゃっかり七海がくっついていた。
顔の造りは同じなのにこの違い。
人を惹きつける七海と誤解で人を遠ざける僕。
大樹も僕の事を気にしつつ先輩達の後に続いた。
悔しい。あんなに必死に練習してきたのに。あんな些細なことで調子を崩すだなんてサイテーだ。楓二中の名コンビだなんて思いあがりもいいとこだ。
堪えても、堪えても悔し涙が溢れてくる。
「何時までそうしてるつもり?」
不意に掛けられた優しい声に顔を上げる。
「そんなに怖い目で睨まないでくれる?」
モップを抱えた春日さんが秀麗な眉を顰めて見下ろしていた。
「す、済みません。睨んだ訳じゃ……」
慌てて立ち上がろうとした僕の肩を押さえて隣に春日さんは座り込んだ。
「後悔するならもう少し頑張れば良かったのに、動きは悪くなかったと思うけど?」
「……ありがとうございます」
呟く様に答えた僕にニッコリ微笑んだ春日さんは「君、今朝一緒に居たよね、名前は?」と聞く。
「あっ、1―A上坂、上坂大海です」
「……上坂? アイツとは親戚か何か?」
「双子です」と答えて僕は掛けていた眼鏡を外した。素顔を見て春日さんは「ホント顔はそっくり。でも性格は正反対みたいだけどね」とまた笑う。
性格は顔と同じで似ていると思う。七海は表に出せる奴で僕は出せないって奴だって事。『あんたはソンするタイプだ』と姉さんが言ってたっけ。
「問題は精神面……か」誰にともなく春日さんは呟き、コロリと口調を変えて「上坂はさ、バレーが好き?」と聞いた。
僕は大きく頷いた。
「神野のワンマンチームだよ、それでも?」
そうかもしれないけど僕はこのチームが好きだった。
「それでもです。何がどうって…上手く言えないけど……」
「判るよ。俺も好きなんだよなぁウチのチーム。だから辞められなかった」
ポツリとこぼした春日さんの言葉に、僕は彼の整った横顔を見つめた。そして、不思議なことに気がついた。
なんで春日さんがここに居るのかと言うことに――。
彼はこのチームの要のセッターだ。皆と一緒にロードワークに行かなくても良いのだろうか?
視線に気付いたのか春日さんはフワリと笑って自分の膝をポンポンと叩いた。
「あの試合の後にね、ここがイカレちゃってさ。日常生活に支障は無いけどね、激しい運動はできないんだ。だけど、朗(あきら)……行岡や神野達と一緒にインターハイに行きたくて、未練がましくマネージャーなんかしてる」
そうなんだ…。
さぞかし悔しかっただろう。手に取るように春日さんの気持ちが僕には解る。今の僕に重なってしまう…でもだからって諦められない、僕だってそうだ。
(だからマネージャーを……!)
僕は弾かれたように顔を上げた。
そうかその手があった。
チームメイトじゃなくてもマネージャーなら、一緒にいられるじゃないか。
チャンスがあるかもしれない――。
春日さんを見ると彼は優しげな微笑を僕に向けて頷いた。
うわぁ、どうしよう春日先輩が女神様に見えるよ。
「言いたいこと伝わったみたいだね。但し、自分の口から言うんだよ。俺は一切手助けはしない。アイツ…神野は他力本願が嫌いなヤツだ。だけどちゃんと話を聞く耳を持ってるから。さっ、話しは終わり、掃除するから手伝って。俺が扱いてやるからな。それと笑ってごらんよ。マジな顔の上坂って怖いよ、ホント」
茶化して言ってくれた春日先輩に僕は精一杯の笑顔を向けて頭を下げた。
「ハイ、努力します」
春日先輩に教えられた通り僕は体育館をピカピカに磨き上げた。そして、ロードワークから帰ってきた神野先輩に頭を下げた。
自分の言葉で今の正直な気持ちを伝えた。
最後まで聞いてくれた先輩は笑ってはくれなかったけど入部を認めてくれたんだ。
少し方向が違ったけど、背に腹は変えられない。
微かに玄関のドアが開く音がする。近くのバレエ教室で助手のアルバイトをしている永海姉さんが帰ってきた。時計に目をやると午後11時を少し回った所だった。相変わらず時間には正確だ。待ってましたとばかり僕は開いていたノートをパタンと閉じる。
あの入部テストから3週間が過ぎ、連日、猛練習で絞られている『神野先輩お気に入り』の新入部員はメシを食うのもそこそこに、布団に潜り込み高いびきをかいている。
早々に音を上げると思ってたのに未だに七海の口からは「やめる」の言葉が出ない。
どうしてそんなに頑張るんだ?
そんなに先輩のことが好きなのか?
はっきり聞けたら苦労しないのに。
人懐こい性格と生まれついての要領の良さ、加えて『思いついたら即行動』の七海はあっと言う間に宣言通り神野先輩と仲良くなってしまった。
今ではバレー部のマスコット的存在だ。
それを羨ましく横目に見ながら、黙々とマネージャー業をこなすのが今のところ僕の日課である。
僕は神野先輩と打ち解けられないでいる。マネージャーとしてなら話す事もできるけど、それ以外では意識してしまって声をかける事すらできない。校内や食堂で出会ったりしても他の先輩となら平気なのに神野先輩だけは見掛けるだけでダメ。弾む心とは裏腹に身体が逃げてしまい、柱の影から覗き見ていらぬ妄想に更ける――って今時の少女漫画も真っ青な片想いをやっている。しかもマネージャーって思ったよりも大変な仕事だったのだ。
ユニフォームの手配から始まってコートの整備に備品の管理、果ては練習試合の調整まで……ほとんど雑用係だ。春日先輩がマネージャーになるまでは部員が手分けしてやってたってことらしい。
「だから練習に集中できなくて負けちゃうんだよ。だから俺がマネージャーとして残れたわけだよ」っていう言葉に僕は素直に頷けた。
ハンパじゃなく厳しい練習なのだ。見てるだけの僕ですらげっそりするし、絶大な体力を誇る大樹ですら『勘弁してくれぇ〜』と泣き言を漏らすくらいだ。既に新入部員の半数が退部していった。休憩だって春日先輩に言われて僕が笛を吹かないとと際限なく続くありさまだ。サボる事にかけては誰にも負けない七海がついていってることが不思議で、つい余計な事を考えてしまうのだ。
しかもやたらと怪我人が多い。ここは格闘部なのかと首を傾げるくらい、毎日、誰かがどこかに怪我をしている。コーチもいないウチのチームの健康管理はやっぱりマネージャーの仕事だろうし、故障者が出てしまえば試合にも支障をきたすだろう。そういう意味で知識はあっても邪魔にはならないだろうから看護大でスポーツ医学を専攻している姉さんに教えを乞うことにした。
まだ神野先輩が怪我をしたことは無いけど、万が一何かあった時、うろたえたくないから。
『有り難う。お前のおかげで助かったよ、本当にお前は有能なマネージャーだな』とかなんとか、先輩が僕の手を取り目を見詰めていってくれるんだ……。
ああ、もうどうしよう――ってこんなことを考えてる場合じゃない。急がないと姉さんが寝てしまう。どうして先輩のことを考えるとこうなんだろう。本人を前にすると何も言えなくなってしまうのに、ホント情けない。
僕は急いで部屋を出た。
「まったく…あんたって子は…」
僕の話を聞くなり姉さんは絶句した。
勢い込んでいたのにこの結末。余りにも情けなくて入部したとだけしか話してなかったせいだ。それに受験勉強の間中止していた朝のランニングも再開していたし(身体がなまっても困ると思ったからだけど)、七海がぼろぼろで帰ってくるのは単に体力の差なのだと思っていたらしい。
「それでアンタは納得してる訳なのね」
「納得してる訳じゃないけど…他に方法が無くて――さ」
モゴモゴと呟く僕に姉さんは「仕方無い、乗りかかった船だもんね」と苦笑を漏らすと「シャワー浴びてくるから、後で部屋へおいで」と立ちあがった。