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目の前で弱音を吐く先輩を見つめる俺には陽也さんの気持ちが判る。それは俺も彼と同じく思う立場だったからだ。
自分の思いを告げることなくこの世の人で無くなってしまった陽也さんはけじめをつけたかったんじゃないだろうか。
先輩を心から愛していたから自由にしてあげようとしてるんだろう。
「陽也さんは先輩の事を愛してたんだと思います」
俺の口から滑り出た言葉に先輩は驚いた表情で顔を上げた。
不思議そうに問い返す先輩に俺はコクリと頷いた。
「俺、陽也さんの気持ちが判るような気がします。勿論、俺は彼じゃないから全く同じって訳にはいかないと思いますけど。憧れが恋に変わるってあると思うんです」
「憧れが恋に変わる?」呟くように言った先輩にもう一度頷き返して俺は慎重に言葉を選びながら口を開いた。
「陽也さんはきっと小さい頃から父親に『お前には兄さんがいるんだよ』と聞かされていたんだと思うんです。出生が出生だけにどんなに会いたくても堂々と会うことは出来ない。逢わせて貰えなかったのかも知れないけど。その頃彼はまだ小学生でしょう? “兄貴”に憧れる年じゃないですか。俺だって姉貴じゃなくて兄貴が欲しかったから。最もウチの姉貴は兄貴みたいでしたけどね……ええと、ゴメンなさい何の話しだっけ……ああそうだ。それにその年なら会いに行きたくてもその方法すら思い付かなかったんじゃないかな。そんな陽也さんが父親から貰った写真を眺めながら思いを募らせても不思議じゃないと思う。それが先輩のお母さんの死がキッカケになって一緒に暮らせることになった。きっと陽也さんは飛び上がりたくなるほど嬉しかったでしょうね。俺もそうでした。憧れていた真理に会えて話が出来た時には天にも登る気持ちでしたからね」
俺は初めて真理に会った時のことを思い出していた。
憧れの『四国三郎』と言う作家が、大学に入って一目惚れした相手を同一人物だったと判った時の驚きと嬉しさは今でもはっきりと覚えてる。
話を聞きたいと俺を指名してくれた時は、そりゃあ信じられなくて厨房に隠れて何度もほっぺたを捻った。緊張しながら隣に座って真理の話す言葉のすべてを聞き漏らすまいと仕事そっちのけで聞き入ったことも、その日の内に抱かれたことも、ベッドの中で真理が何を話してくれたかも――全て俺は覚えてる。
「先輩は彼の弱味に付け込んだんじゃ有りませんよ。彼もそうなることを望んでいたんです。だから拒否しなかった。本当に嫌だったら死にものぐるいで抵抗するはずですよ、惚れた相手じゃなきゃ俺だって嫌ですから。ただ……」
そこまで一気に言って俺は言葉に詰まった。
その後に続けようとした言葉は俺の考えで陽也さんの思いじゃない。でも陽也さんもそうだろうと何故だか思えた。
それをストレートに言葉にしてしまっていいんだろうか。
思案している俺に「……何だ?」と先輩が先を促すような視線を向けた。
「俺は恋をしている時が好きなんです」
取りあえずそんな言葉で話し始める。
良く判らないと言った表情で先輩は俺を見ている。
「相手の事を考えるだけで幸せな気分になれる。俺達のような人間にはまだまだ厳しい世の中ですからね。あからさまに嫌悪の目を向ける人もいる。でも人の心は自由でしょ、思うことも自由だと思いませんか? 例えそれが叶わない恋であっても、認められない関係でも、思うことは止められない。禁忌をおかしていてもモラルに反していても、自分が幸せならそれでいい。少女趣味だと笑われてもいいんです。恋は追いかけている間が花だと思うんです。思いを受け止めてもらえればそれはそれで嬉しいことです。でも、そうなったらなったで辛いこともある…」
「幸せそうに見えるお前でも?」
「そうです。人の心は自由であるが故に縛ることも出来ない。こんな関係は間違っている別れようと、何時言い出されるんだろうとビクビクしてます。俺は変わらず愛していけると言い切れるけど、相手の考えてる事までは……ね、判らない。それだったら何時別れを切り出されてもいい様に全身全霊をかけて相手を愛します」
一旦そこで言葉を切って先輩の顔を見た。
「強いな、太朗は」ポツリと先輩は呟いた。
「そんなことないです。開き直っただけです。変に媚びるのも嫌ですから。どう頑張っても俺は俺、それ以上にもそれ以下にもなれない。それならばと自分の心に正直になることにしただけです。嫌なものは嫌、欲しいものは欲しいと素直に言えばいいんですよ。我慢することなんかないんです。我慢して見栄はってもダメな時はダメなんです。それに頑張るのって疲れるでしょ。頑張って努力してそれで二人の関係が壊れてしまったら、受ける痛手は大きいと思う。そのことの方が俺には耐えられない。きっと相手の事を恨んでしまうでしょう。そんな無様なことはしたくないから俺はこのままの自分で勝負するんです……って臆病なだけなんですけどね。だからって訳じゃないですけど、陽也さんも怖かったんだと思う」
「怖い? 一体、何が…」
「真実を告げることが、です。先輩が陽也さんの笑顔を失いたくないと思ったように彼も大好きな先輩を失うことが怖かった。事実はずっと自分の心の中にしまっておくつもりだった、なのに判ってしまった。自分の気持ちを告げる前に先輩は出ていってしまった。陽也さんには開き直る暇すらなかった。彼は待っていたんだ先輩が帰ってくる日を、一人で待ちつづけて……ある日、ふと自分がいるから帰ってこないんじゃないかと思った。自分さえいなければ先輩は帰ってくるかもしれない。だから家を出た。でも家を出ても先輩の事を忘れることは出来なかったはずです」
そうだよね、陽也さん。そう簡単に忘れることなんか出来ないよね。
俺は新聞の中で淋し気に微笑んでいる陽也さんに心の中で問い掛ける。
「どうしてそう言い切れる?」先輩が低い声で聞いた。
「推測です。俺ならば一度惚れた相手をそう簡単に思い切れないから……」
「だから陽也もそうだと言うのか? でもあいつはデートクラブなんかで働いてたじゃないか。もし太郎の言うように陽也もオレの事を愛してくれているんだとしたら、どうして他人に身を任せるような事ができる。それは俺に対する裏切りじゃないか! 違うのか?」
「じゃあ、どうして先輩は陽也さんを一人残して家を出たんです。話し合って解決策を見つけることだって出来たかも知れないのに……自分だけの責任みたいにして、どうして逃げたんです! それが陽也さんの重荷になるって考えなかったんですか? それに先輩はこれまで彼以外の人間を抱かなかったとでも言うんですか?」
余りの言い方にカッとしてたまらず声をあらげてしまった。
先輩の言い方は酷すぎる。まるで自分だけが“苦しんだ”と言ってるみたいに聞こえた。
“血”という消したくても消せない繋がりと自分の思いの板挟みで苦しんでいたのは陽也さんの方なのに。
先輩には頼る人が居たけど、彼は一人だったのに……。
「……お前、泣いてるの…か?」伺うような先輩の声に慌てて頬に手をやった。
どうして涙なんか……?
やや乱暴に涙を拭った。それだけの事で俺の心の中にあった怒りのようなものは嘘のように治まってくれた。
「済みません。言い過ぎました」素直に頭を下げる。
「いや、俺の方こそ言い過ぎた」グラスを弄びながら先輩はボソリと呟いた。
気まずい沈黙が俺達の間に降りた。微かなエアコンの音だけが聞こえる。
俺は何を言いたかったのかなぁ。
自分で自分が判らなくなる。でもこのままじゃダメだ。
このままじゃ同じ事を繰り返すだけだ。
でも、どう言えばいいんだろう?
途方に暮れて新聞に目をやる。何気なく陽也さんの隣に写っている男性に目をやった。
……この男性――――!
意を決して俺は口を開いた。
「人間なんて弱いものだと思いませんか。どんなに強がってみせてもどうしようもなく人恋しくなる時がある。無性に誰かに縋り付きたくなる。そばに抱き締めてくれる相手がいればなんの問題もない。そうじゃない時は―――行きずりに相手を求めても仕方ないでしょう。ただ相手は誰でもいいって訳じゃないけど………」
「陽也もそうだった……と?」
俺は頷き、新聞を先輩の前に押しやる。
「陽也さんが庇った相手の写真、見てください。誰かに似てると思いませんか?」
先輩は粒子の粗い写真に目を落とした。
「先輩に似てるでしょう」と俺が聞くと先輩は「判らない」と首をふった。
「顔じゃなくて雰囲気がね似てるんですよ。無意識のうちに先輩を重ねてたのかも知れないな。だから陽也さんは身を挺して庇ったんです。先輩が殺されてしまうと錯覚してしまったんだ」
推測で言ったけれどこれは確信に近かった。
俺だって真理の為なら命を投げ出す事くらいなんでもない。
愛する者が傷つけられるより自分が傷付く方がいいに決まっている。
愛する者の為に死ねるんなら本望だと思う。
それを『ただの自己満足だ』『安っぽいヒロイズムだ』と言われれば、そうだと素直に頷いてしまうけれど。
理屈なんかじゃないんだ、きっと。
言葉になんか出来ない。
考えるよりも先に体が動いてしまう。
そう言うものじゃないのかな。
ねえ、陽也さん。君もそうだったんだろう?
もう一度、俺は彼の写真に無言の問いかける。
一瞬、彼が微笑んだように見えた。
勿論、そんなことがあるはずは無くて、そうであればいいと思った俺が見せた幻影だったけれど。それに押されるように俺は口を開く。
「先輩、陽也さんは迎えにくるのを待ってますよ。迎えに行ってあげないと何時まで経っても自由になれない、先輩も彼も」
「俺も陽也も?」
「そう。先輩は陽也さんに負い目を感じてる。一人で置き去りにしたことを悔やんでる。先輩がそんなじゃ陽也さんも安心してお父さん達のところに行けないじゃないですか。彼を解放してあげられるのは先輩しかいないんですって!」
「……許してくれるだろうか」
先輩はまだそんな事を言っている。
全くこの人は……。いつもの勢いは何処へ行ってしまったんだろう。<
「許すも許さないも、陽也さんはもうこの世にはないんです。先輩を縛り付けるものは何も有りません。もし有るとすればそれは先輩自身です。先輩はもう充分苦しんだでしょう。ここ数日は彼の事だけ考えていたでしょう。それで陽也さんは満足してます。俺は陽也さんの事を忘れろと言ってる訳じゃない。彼は先輩の心の中に思い出としていつまでもいます。でも先輩は生きていかなきゃならない。先輩が自由になって自分らしく生きていくことが陽也さんにとって一番の供養になると思うし、陽也さんだってそれを望んでると思います」
こんなセオリー通りの言葉しか掛けられないのは情けないけど、でも、これでいいんだと自分に言い聞かせる。
だって、先輩もこのままでいいとは思っていないはずだから。切っ掛けがあれば簡単に解決するものだと思う。二人して迷っていてはダメだ。
「そうだろうか?」<
なおも未練がましく言い募る先輩に俺はあることを思い付いた。後の報復が怖いけど、今の先輩には口に出して言わなきゃ判らないだろう。
俺は覚悟を決めて口を開く。
「そうです! 先輩が元気じゃないと調子狂ってしょうがない。俺だけじゃないですよ、先輩の事を心配してるのは。その人は俺以上に先輩の事を考えてますよ。判ってるんでしょう? そろそろ現実を見てもいいんじゃないのかなぁ。過去は乗り越えるもの、何時までも囚われてちゃ目の前にある幸せを逃がしてしまいますよ。それでもいいんですか? 欲しいものは欲しいと口に出して見たらいい。多分、編……ううん…その人も先輩と同じ気持ちのはずですから」
先輩ははじかれたように顔を上げた。その顔が見る見る赤くなる。
アハハ……こんなに素直な人だとは思わなかった。けど図星みたいだな。
へっへ〜、伊達に経験つんじゃいませんってね!
グラスの底に残ったウイスキーを飲み干して俺は時計を見た。
ありゃ〜もうこんな時間だ!
後少しで日付が変わってしまう。<
俺は慌てて立上がり、少々強引に先輩を部屋へと連れて行く。
「俺から誘っといてなんですけど、身体大丈夫ですか? ここまできて体調崩したら元も子もなくなりますから……何かあったらこえかけて下さい。こっちでワープロ叩いてますから」<BR>
ベッドに寝かし付け、子供にするみたいにぽんぽんと胸の辺りを叩いてやった。<BR>
「子供みたいな事するなよ……」と不平を漏らした先輩はすぐに寝息を立て始めた。<BR>
溜まっていた物を吐き出して少しはスッキリしたのか、先輩はあの夜以来うなされる事なくぐっすりと眠っていた。初めの一時間は気になって何度も覗いてしまったけど、先輩は身動ぎもせずに寝入っていた。<BR>
ホッと胸を一なでしてリビングのテーブルの前に座り頬杖をつく。<BR>
先輩があんな事を抱えていたとは知らなかった。<BR>
人は見掛けによらないとはよく言ったもんだ。<BR>
そんな素振りは全然見せなかったしな。<BR>
それにしても随分偉そうな事言ったよな。思い返しても恥ずかしい。<BR>
「――――!」<BR>
俺は慌ててワープロにかじり付いた。<BR>
どうしてこんな簡単な事を忘れていたんだろう。悩むことなんて無かったのに。<BR>
そうだよ。どう頑張っても俺は俺、それ以上でも以下でもない。だったら今、俺が思っていることをそのまま書けばいいんじゃ無いか。<BR>
俺より文章が上手い奴なんて真理をはじめとしてこの世の中にゴマンといる。それでメシを食っていない中にだっている筈だ。そんな奴に対抗して気取った文章を書いたって誰も読んじゃくれないよな。与えられたチャンスを何が何でも物にしなきゃって、らしくもなく考えたことが間違いだった。<BR>
編集長だって言ってた『淀のような文章を書けと言ってるわけじゃない。それに私が使えないと判断したら遠慮なくボツにする』って。<BR>
『人の振り見て我が振り直せ』だ。<BR>
「先輩、サンキュー。俺、なんとか書けそうだ」<BR>
寝室の方に小さく声を掛けて、俺はディスプレイに向き直った。<BR>
「……んっ。あれ?」<BR>
思いきり伸びをして俺は首を捻る。<BR>
俺、なんでベッドになんか寝てるんだ?<BR>
昨夜は確か明け方近くまでワープロの前に座ってたはず……。<BR>
それにこのベッドは?<BR>
「そうだ! 先輩――――」<BR>
飛び起きてリビングとそれに続くキッチンを見渡す。
誰もいない?
先輩は一体何処へ行ったんだ?
のそのそと部屋を出てキッチンに行く。やはり先輩の姿はない。
なんかこんなことなかったか?
そうだ、つい五日ほど前に真理の家で経験したことだよ……なんて考えながら歩き回ってると、テーブルに書き置きを見つけた。
これも同じだ。ただし、こっちはとても丁寧な字で書かれていたけど。
『陽也を迎えに行ってくる』
そう一行だけ。
良かった――――。
ほっと一息ついた時、目の前で電話が鳴った。慌てて取りあげて、思わず笑ってしまった。
先輩はいないんだし、気を使うことなんかないのに。
『…おい、板東。何がそんなに可笑しいんだ?』
受話器を持ったまま笑い続けていた俺の耳に編集長の声が聞こえた。
「済みません。何でもないんです。編集長、先輩、もう大丈夫です」
『そのようだな』
「知ってるんですか?」
『ああ、今朝、私の家に来てくれた。義弟を迎えに行くから、もう一日休みをくれといってな。何の事だか判るか? お前』<BR>
編集長の疑問に俺は先輩らしいと思う。
余計なことは一切言わないんだ。
そう、これは先輩の問題であって俺が言うべきことじゃ無い。だから俺は、
「はい。でも理由は先輩の口から聞いてください」と、編集長に言い返す。俺の思いを汲んでくれた編集長は『そうか、判った』と答えて『ところで原稿の方なんだがナ…』と続けた。
編集長に言われるまですっかり忘れてた。
コードレスホンを手にしたままリビングへ行く―――けど、ワープロはキチンとテーブルの上に乗っているのに、原稿が―――ない。
そんな……昨夜、ちゃんとプリントアウトしたのに。
何処へやったんだろう?
ばたばたとそこらへんを捜しまわる。編集長が電話の向こうで何か言ってるけど、そんなの聞いちゃいられない。
「……ない。そんなぁ〜」情けない声で呟いた俺の耳に、
『落ち着け! 板東』
編集長の怒鳴る声が響いた。<
「落ち着いてなんかいられませんよ。ないんです。編集長……原稿が、原稿が……俺、ちゃんと書いたんですよ。本当です、信じてくださいよぉ」
噛み付くように言い返して、また情けない声で呟いてしまう。あんなに必死になって仕上げた原稿が――――。
取り乱す俺の声に、編集長は電話口で軽く溜め息をついて、
『だから、原稿は私の手許にある、と言ってる』と続けた。
「えっ?」
『淀が今朝、持ってきてくれた。花丸はやれんが、今回は目を瞑ってこれを使ってやる』
「ほほほ…本当ですか」
編集長の言葉に勢い込んで怒鳴り返してしまった。
『だぁ〜五月蝿い! 板東、深呼吸だ! 深呼吸!』
負け時と怒鳴り返されて我に返った俺は言われるまま深呼吸を繰り返した。
『落ち着いたか』受話器越しに落ち着いた編集長の声が聞こえた。
「はい。取り乱して済みませんでした」
『まあ、いい。よく頑張ったな、初めてにしちゃいい出来だと思うぞ』
「ありがとうございます!」
コードレスホンを握り締めたまま俺は見えない編集長に向かって頭を下げた。
電話の向こうで小さく笑う声が聞こえた。
あれはきっとエミちゃんだ。
あ〜あ、顔を見たらきっとからかわれるに違いない。
編集部に行くのイヤだよぉ〜。
俺はこっそりと溜め息をついた。
『ところで板東。この五日間、面倒かけたな。今日は家に帰ってゆっくり休め』
俺の思いなど判るはずもないのに編集長はそんな事を言った。<
「いいんですか?」半信半疑で聞き返す俺に、『ああ。残ってるのはこのページを含む台だけだからな。私でもできる』と、返事が返ってきた。
この申し出ははっきり言って有り難かった。
編集部にいるよりも肉体的には比較的ラクだったけど精神的には疲れている。
こんな俺でもそれなりに気を使ってたということなのだ。
「それでは、お言葉に甘えさせて頂きます」といつもより幾分丁寧にお礼の言葉を告げた。
『明日から、また頼む。お疲れさま』
編集長はそう締めくくって電話を切った。
そう言うことならば急がなくても大丈夫。
五日間、世話になった部屋を片づけ掃除機をかける。
改めて見渡し、充実した五日間だったと思う。それから戸締りを確かめ、荷物をまとめて玄関へ行く。
靴に足を突っ込みながら備え付けられた下駄箱の上にあった写真立てに目を留めた。
今日まで何度も玄関へは来たけれどそんな物があることに気がつかなかった。
きっと、先輩が置いていった物だろう。
そこには――――卒業証書の筒を胸に抱いた陽也さんが明るい晴れやかな笑顔で写っていた。
これが彼本来の笑顔だな。
見る人の全てを魅了する、一点の曇りの無い明るい笑みだった。
マンションのエントランスの外に一歩踏み出すと、真夏の太陽に照らされて汗が瞬時に吹き出したけれど、気分はなんだか清清しかった。
「おっはよ〜ございます!」
翌日、定時出社五分前に元気良く編集部のドアを開けた俺の前に、編集長のデスクで穏やかに微笑む先輩が居た。
「あれぇ先輩、もう帰って来たんですか?」
自分のデスクに移動しながら声を掛けた俺に、
「ああ。昨日、朝一番の新幹線で陽也を迎えに行ってきた。その足でウチの菩提寺に預けてきたよ。後の事は祖母に任せてきた。盆休みに帰ってキチンと供養してやるつもりだ」
振り返った先輩は吹っ切れたような笑顔で答えてくれた。
良かった、良かった――――と頷いたところで何時まで待っても朝の一杯が出て来ないことに気がついた。
そう言えばエミちゃんは?
と俺はさして広くも無い部屋を見渡した。
彼女どころか桂も相川も居ないじゃないか。
これは一体どうしたことだ?
一人首を捻る俺のデスクにド〜ンと校正刷りの束が置かれる。
「編集長? なんなんですかコレは?」
目の前に築かれた紙の山を指差し聞いた俺に、穏やかな微笑みをたたえて編集長は答える。
「見ての通り今月号の校正刷りだが? 休んでるあいだに忘れてしまったのか?」
「忘れた訳じゃないですけど……それで?」
「昨日まで寝る間もないくらいの修羅場だったんだ。エミちゃんまで泊まり込んでくれてね。今日は特別休暇を取ってもらった」
何でもないことのように言う編集長の台詞に俺と先輩は顔を見合わせ、二人して我らがボスを見る。
「……ってことは、まさか?」
恐る恐る声を発したのは先輩だった。それににっこりと微笑みかけ編集長はこう宣った。
「充分に休息を取った二人にチェックをお願いしたいのだよ。年がいもなく徹夜なんかするもんじゃないね、全く。ゆっくり風呂にでもつからんと体の節々が痛くてたまらんよ」
わざとらしく腰なんか叩きながら、編集長はクルリと背を向けた。
「編集長〜、俺、病み上がり…」
「五日間、遊んでた訳じゃないっスよぉ〜」
見事にハモった俺達の抗議を、聞く耳は持たないよとばかりにサラリと背中で受け流し、ヒラヒラとてを振りながら編集長はドアを出ていった。<
「…ああ、そうだ。昨日、最終で入稿したヤツも追っ付け届くはずだから。今日中に全て終わらせておくように、じゃあ頼んだよ」と、一旦閉めたドアをわざわざ開けて言いおいていった。
昨日の優しい申し出の裏にはこんなことがあったのか。
上手すぎる話には裏があるってことか。
さすが編集長奥が深い――――。
校正刷りの山を前にして俺は小さく溜め息を吐く。俺のすぐ後ろ、自分のデスクに戻った先輩も同じように溜め息をついている。俺は恨めしげに振り返った。
「なんとかしてくれたら良かったのにぃ〜」
ついそんな事を口走ってしまった。それを聞いたピクリと先輩の右の眉が上がった。
「一昨日の時もそうだったが、お前、なんか勘違いしてないか?」
「へっ? 勘違い?」
「一昨日の最後のお前の台詞だよ」
俺は記憶の底から一昨日の夜を引っぱりだし頭を捻る。
俺、なに言ったっけ?
しばらく考えて、やっと思い出した。
「ああ。素直に欲しい物は欲しいと―――ってあれですか?」
俺の返事に重々しく頷いて「それが勘違いだ」と睨み付けた。
「え〜っ、だって編集長と先輩って付き合ってるんでしょ?」
「お前の言う付き合いとはどう言う関係をいってるんだ?」
先輩は俺を睨みつけたまま地を這うような声を絞り出した。
「嫌だな、先輩。この後に及んでごまかす気ですかぁ。だから、俺と真理みたいな……」
俺の台詞を聞いている先輩の顔がみるみる紅く染まっていく。
ホ〜ラ見ろ! 大当たりじゃないか!
俺は得意気に先輩を見た。
「おっ、おっ、お前〜! 何処に目をつけてるんだ。なんで俺と編集長がそんな関係に見えるんだ」
「えっ? 違うんですか」
「ちが〜う」と先輩は吠えて、ジロリと俺を睨み付け、さらに凄みを利かせて「いいか、耳の穴かっぽじってよく聞けよ」と前置きした。
余りの迫力に押されて俺は頷く。先輩は大きく深呼吸するとこう言った。
「俺の好みは陽也だ。年下だ。誓ってオヤジじゃない!」
そんなきっぱり言い切らなくても――――。
編集長が傷付くよ……とこの場に居ない人間の事を考えてしまう俺だった。
「あの人は恩人なんだよ。それに俺には目標でもある。お前が言うような目で見たことはない」
静かな声でそう言った。
「憧れが恋に変わる――――ってぇ!」
デスクに寄り掛かってボソリと呟いた俺に拳骨が飛んできた。俺より一回りデカイ先輩に力一杯殴られた俺は思わずその場にしゃがみ込んだ。
「俺は陽也じゃないんだ。そんなことある訳ない!」
頭を抱えてしゃがみ込んだ俺を見下ろしてきっぱりと言い切った先輩は、自分のデスクに戻らずに腕を組んで俺を見ている。その目がキラリと光る。嫌な予感を感じつつ痛みの引かない頭を摩りながら「まだ、何か?」と先輩を見上げる。
「ふん。こうしてみるとお前もなかなか可愛い顔をしてるな」
俺の無言の問いかけに意味ありげに微笑んでそんな返事を返す。
なっ、なんだってぇ〜。
かっ可愛いだぁ?
俺が…か?
そんな台詞、未だかつて言われたことなんかないぞ。真理にだって言って貰ったこと――――ない。
そりゃ言って欲しいとは思うけど……じゃなくて―――だ。
とんでもない言葉に頭の痛みは何処かへすっ飛んでしまって、アングリと口をあけたまま、ニヤニヤ笑いを浮かべる先輩を見ることしか出来ない。
「どうだ? 吉野先生と別れて俺と付き合わないか?」
突拍子もない台詞に一瞬フリーズしてしまった俺は“吉野先生”で我に返る。
そうだ! 今日は真理が取材から帰ってくる。ぐずぐずしている暇なんかないんだ。
さっさと片付けて帰らなくては。
「さっ先輩、冗談はそれくらいにしてさっさと仕事をやっつけちゃいましょう!」
勢いよく立ち上がり話を切り上げにかかった俺の腕を先輩は掴んで引っ張った。
突然のことに、何が起こったのか理解するのに少々手間取ってしまった。>
気がつけば、俺は空いたデスクの上にアジの開きのような格好で押さえつけられていた。
アップで迫ってくるのは、一昨日の夜とは打って変わった真剣な目をした先輩の唇。
冗〜談じゃない!
なんで俺が先輩に襲われなきゃならないんだ!
ジタバタと暴れてみても、もがいいてみても俺を押さえ込む先輩の腕はびくともしない。それどころか、
「俺の陽也はいなくなってしまった。陽也の代わりに淋しい俺を……慰めてくれないか?」
なんて耳元で囁く。
ホント冗談じゃない!
どうして俺が陽也さんの代わりをしなくちゃならないんだ……とは思ったけど、目の前にある先輩の瞳が一昨日の悲しげなソレと重なって、つい、情にほだされてしまいそうになって――――うっかり目を閉じてしまった。
無抵抗になった一瞬をついて先輩の唇が更に近づいてくる気配を感じた。
「やっぱダメです! 代わりになんてなれません!」
精一杯の声で俺が叫ぶのと同時に両腕を押さえつける力が弱まった。恐る恐る目を開けた俺を見て先輩が苦笑を洩らした。
「冗談だ。陽也の代わりなんて誰にも出来るわけない。からかって悪かったな」
言いながら腕を引っ張って起こしてくれる。けど、力任せに引っ張るもんだから、勢いがつきすぎて先輩の胸に倒れこんでしまった。先輩は自分もバランスを崩してよろめきそうになりながらもしっかりと抱きとめてくれた。
その時を見計らったように編集部のドアが開いた。
先輩と顔を見合わせ振り向いた俺は、入口に立っている人物に目を見開く。
ドアノブを握り締めて立っていたのは、この一週間、会いたくて声を聞きたくて堪らなかった相手―――真理だった。
真理は入口で仁王立ちのままこっちを睨みつけている。
どうして入ってこないのだろうと首を傾げた俺は、自分の置かれている状況に気がついた。
未だ先輩の腕に抱きしめられたままだった。
これじゃ真理が誤解しても仕方がない。
見る間に綺麗な眉が釣り上がっていく。
慌てて身体を引き剥がそうとした俺を先輩は何を思ったのか更に懐深く抱え込もうとする。入口にいる人物が俺の恋人――吉野川真理――だと解ったんだろう。
よく解らないけど、真理を挑発してる……。
「……ちょ、先輩? 誤解するなよ真理。ちょっとふざけてるだけだから………」
閉じ込めようとする腕から抜け出そうともがきながら、情けない声を発した時だった。
俺じゃなく先輩を睨みつけたまま、部屋の中に入ってきた真理は、
「このクマ野郎。太朗から手を放せ!」
怒鳴りつけるなり先輩を殴り飛ばした。
巨体が綺麗な弧を描いて窓際まで吹っ飛んだ。
「ちょっ……真理。何てこと……先輩!」
慌てて駆け寄ろうとした俺を押しとどめて、
「動くなよ! 言い訳なら家に帰ってからゆっくりと聞いてやる」
笑顔すら見せずに真理は言い切り、壁際で尻餅をついて自分の身に起こった状況を今イチ把握しきれずに首を捻っている先輩に目を向ける。
「これに懲りたら、二度と薄汚い手で太朗に触るな!」
ぞっとするほど冷たい声で言い放ち、ヒョイと俺を肩に担ぎ上げると、悠々と編集部を後にしたのだった。
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continu? |