“川の交わる場所”シリーズ

4. Midsummer   Jealousy
act 2

 終電も終わってしまった時間だというのに、淀は先に来ていた。一番奥まったボックス席に座ってビールを飲んでいた。テーブルの上には空になったカレーの皿が載っていた。
「はじめまして、吉野川です。お待たせして申し訳ありません」
 向かいに腰を下ろしながら名刺を差し出した。
「こちらこそ、はじめまして。無理を言って本当に申し訳ありません」
 相手もそつなく返事を返し名刺をくれる。
「こんな時間までお仕事とは、編集というのもなかなか大変そうですね」
 注文を取りに来たウエイトレスに、コーヒーを注文し、俺は淀に向き直る。
「有能な部下をどなたかにかっさらわれましてね……。その部下からは申し訳なさそうな声で電話が入りましたよ、夕方に。二人の間になにがあったかなんて興味はありませんが、アイツは何も言わなかったでしょう?」
 俺の皮肉など物ともせず自分もコーヒーを追加注文すると、煙草に火を付け、ゆっくりと煙を吐きだしながら淀は決め付けるように言った。
「言えない理由があったんでしょう?」
 顔を見るのも腹が立つ。俺は淀から視線を逸らしてグラスに手を伸ばした。
「それを君が邪推した? 君達の関係は坂東から聞きました」
 相変わらず煙草を吹かしながら淀がサラリと言った。
俺は驚いて目を見張る。
 太朗が俺達の関係をばらした?
 バレて困る事ではないが、太朗が自分から話したと言う事に驚いた。
「そうですか。で、お話とはなんですか?」
 何時までも悠長に会話などしてはいられない。俺は単刀直入に切り出した。
「あんたもせっかちな人だな。まあ、俺としても可愛い後輩であるアイツの誤解を解いてやりたいしね」
 いきなり『あんた』と砕けた口調になった淀は、付けたばかりの煙草を灰皿に押しつけた。
「誤解?」俺は首をかしげる。
『可愛い』には引っ掛かりを感じたがこの際それは無視して、おとなしく話を聞く態勢に入る。
「そう誤解だ。あんたは大きな間違いを犯してる。はじめに断っておく。いいか、俺とあいつの関係は先輩と後輩、それだけだ」
 と前置きして、残りのビールを飲み干した。
「あんたの質問に板東はどう答えた?」
 聞き方には俺が太朗に何をどう聞いたのか全てお見通しだ、と言う響きがあった。
「何も。具合の悪かったあなたを泊まり込んで看病したと。それだけです。何の病気だったのかと聞いても『俺の口からは言えない』とガンとして口を割りませんでした」
 淀の話の先が読めない俺は取りあえず本当の事を言うしかなかった。
 俺の返事に淀は『あいつらしいな』と小さく笑って「これから俺が話す事は、あんたが信じようと信じまいと、真実だ。俺は嘘をつく必要もつもりもない。あんたに聞く気があるのなら話す」と俺を見る。
 言い切った瞳の強さに気圧されるように俺は頷いた。
「一週間前の夜中、俺は睡眠薬を飲んで自殺を図った。前の日に編集長に頼まれて見舞ってくれた板東が、次の朝、異変を感じて覗きに来てくれなければ、今、俺はこうしてあんたに会う事もなかったろうな。まあ、死ぬことはなかったとしても、まだベッドの中にいただろう。編集長の言いつけを守って、あいつは俺を見張ってた。言い方は悪いかもしれないが、そういう事だ。目を放せばもう一度やってしまう可能性があったと言う事だな」
 淀がそこまで一気にしゃべった時、コーヒーが運ばれてきた。ブラックのまま一口飲んで俺は先を促した。
 テーブルに肘を突いて、組んだ両手に顎を乗せ淀は再び口を開いた。
「あいつは何も聞かなかった。ひたすら自分の仕事と俺の面倒を見続けてくれた。食事の時には嬉しそうに恋人の話も聞かせてくれた。俺の方が耐えきれなくなって『何も聞かないのか』と問い掛けた程だからな。そしたらあいつは『無理に聞きたいとは思わない、先輩が話したくなったらでいい』と答えた。どうしてか判らないが、こいつになら話してもいいと思った。それまで誰にも言わずに胸の中に抱えていた事を全てぶちまけても、こいつなら大丈夫だと思った。それでも何をどう話したらいいかと迷ってた俺の心を察して、あいつは先に自分の事を話してくれた、自分の癖の事をな。俺は板東の恋人が誰なのか聞いてしまった。重大な事を事も無げに口にして、話してすっきりしたと笑ってくれた。俺の負担を軽くしてくれたんだよな。だから俺も素直にありのままを話す事ができた」
 淀の話に太朗らしいと思いながらも、まだ納得が行かない。太朗があそこまでかたくなに口を閉ざした理由はまだ他にありそうだった。
 淀は目の前のコーヒーにミルクをたっぷり注ぎ入れると一口飲んだ。
「さて、ここからが本題だ。まずそれを見てくれ」
 言いながら一枚の紙を俺の目の前に差し出した。
「被害者の神崎陽也が俺の義弟だ。俺は陽也を愛していた」
 思い出話しをするように穏やかな声で淀は話し始めた。

「……と言う訳だ」
 最後まで乱れることなく淡々と、まるで小説のプロットを語るように淀は話し終え、冷めてしまったコーヒーを一口飲んだ。
 俺は言葉もなく目の前の男を見つめていた。
「誤解だと言う意味を判ってもらえたかな? まあ、ここまで冷静に話が出来たのも、一度、板東に話していた事と、あんたが意外と聞き上手だったからだけどナ。……おい、吉野先生、起きてるか?」
 彫像のように動かない俺の目の前に手を翳しヒラヒラと振って見せる。
「えっ! ああ。聞いてますよ」
 我に返って、グラスの水を一息で飲み干した。
 聞き上手もなにも……。
 次々と吐き出される言葉に口を挟むことが出来なかったのだ。
 出来過ぎた話だという思いはあった。が、語り続ける淀の表情はあくまでも真剣(もしこれが演技だったとしたら、マジで主演男優賞ものだ)で、本人は冷静にとは言ったが、時折、苦痛に顔を歪ませたりもしていたから『嘘をつく必要もつもりもない』と言い切った言葉は真実だったのだと思わざるを得なかった。
「確かに、俺の思い違いのようですね」
 ここは素直に間違いと認めよう。この話を太朗の口から聞いたとしても俺はきっと信じることは出来なかっただろう。『良くできた作り話だ』とイヤミの一つも吐いていたに違いない。そう思えば、太朗がガンとして口を開かなかったのは納得できることだった。でも、まだデータが不足しているように思う。<BR>
「でもそれだけでは、太朗とあんたの間に何があったかまでは判らない。何もなかったという証拠は何もない、違いますか?」
「そりゃそうだろうが……そこまで疑うか?」
 俺の言葉に淀は心底呆れたような表情を作る。
「ええ、分からない事はとことん調べるのが俺のやり方です。二人の間のやり取りを聞かせてほしいですね」
 口をついて出た言葉はウソではないが、仕事に関してだけで、こと人に対してそこまで執着した事はない。
 それをどう取ったのか、淀は小さく咳払いをして口を開いた。
「陽也は俺が迎えに来るのを待っている、それを望んでいると言った。陽也の死を乗り越えて、俺が俺らしく生きることが一番の供養になる……と言ったかな」
「ふん、いかにも太朗の言いそうなことだ。優等生の模範解答だな」
「ああ、そうだな。俺もそう思う。もし他の奴がそう言ったなら俺だって、バカにするなと怒鳴っただろうな。あいつだったから、板東が言ったことだから素直に聞くことが出来たんだと思うよ」
 顎に手を乗せて窓の外に目を向けた。
「どう言う意味だ?」
 問いかけた俺に、外に向けていた視線をゆっくりと戻して「あいつが純粋で一生懸命な男だからだ」と言う。
 俺はまた首を傾げる。
 確かに思い込んだら一直線な奴ではある。が、純粋とは  ―――どう言うことなんだ?
 おとなしく淀の続きを待った。
 漠然とだが、考えていたことの答えが見つかるような気がしていた。
「あいつは陽也の気持ちが判ると言った。憧れが恋に変わっても不思議じゃないと、きっと陽也もそうだったと―――あいつの例え話には妙な説得力があって俺にも納得できるものだった」
 淀の言葉に俺は太朗と始めて会った日のことを思い出す。
 取材にいったホストクラブで太朗はバイトをしていた。俺に向ける真っ直ぐで人なつこい笑顔に惹かれてあいつを指名していた。隣に座って質問に答えながら『実は憧れてたんだ』とはにかむように笑った。意外にウマがあ合ってその日のウチに体を合わせたのだった。
 その日限りのアバンチュールのはずだった。
 ここまで長い付き合いになるとは思ってもいなかった。

「恋は―――」淀の台詞が俺を現実に引き戻す。俺はあの頃のあいつを思い浮かべながら視線を淀に戻した。「恋は思っている間が幸せだ。相手のことを考えるだけで幸せになれる。思いが通じればそれはとても嬉しいことだけど同時に辛いことも増えると言ってたナ」
「太朗がそんなことを? 一体、どうして」
 思わず口を挟んだ俺に淀は軽く頷いて続けた。
「世間に認められない関係だから、いつ別れを切り出されるかとビクビクしている。でも心は自由で縛ることはできないし、相手の考えている事まではわからない。それでも思う心は止められない。だから、いつ別れを告げられてもいいように自分の全てで相手を愛するのだと、はっきり言った」
 信じられない思いだった。
 太朗がそんなことを考えながら俺と付き合っていたとは思ってもみなかったのだ。
「どう頑張っても自分は自分で、それ以上にも以下にもなれない。だったら自分に素直になるんだと。見栄を張って頑張って……それで二人の関係が壊れてしまったら、きっと相手のことを恨むだろう。そんなことはしたくないから、有りのままの自分で勝負するんだと言った。臆病なだけだと笑ったが俺はそんなことはないと思う。あいつは強いよ。あいつには女にあるような打算も計算もない。あるのは純粋に相手を思う気持ちだけだ。自分を曲げることなく、好きなものは好き、嫌いなものは嫌いだと言い切れる、あいつの強さに俺は助けられた。あいつが純粋だと言った意味が解ってもらえたかな?」
 淀の問いかけに俺は答えられなかった。
「太朗が―――純粋……?」
 呟いた俺の言葉を聞き咎めた淀がドンとテーブルを叩いた。
「あんた! 板東と何年付き合ってる。たった五日間一緒にいた俺でさえ気が付くことが出来たんだぞ? 一体、あいつの何を見てたんだ? あんたは」
 何を見てた―――と言われても、側にいるのが当たり前で、だからといって邪魔をする訳ではなく限り無く空気に近い存在だったのだ。
「あいつはね、自分の恋人のことを実に誇らしく話してくれたよ。才色兼備で自分には勿体無いくらいの奴だってね。こんな素直な板東に愛されてる人間はどんな奴なんだろうかと思ったよ。打ち明けてくれるまではまさか男だとは思っても見なかったけどな。けど、あんたはあいつの本質を、なにも判ってないじゃないか!」
「太朗はそんなこと、一言も……」
「言葉に出さなきゃ判らないのか? ウチの本で偉そうに男同士の恋愛を書いてるけど、所詮あれは絵空事なんだよな。でなきゃそんな台詞は出てこないだろうよ。どれだけ人気のあるおエライ先生か知らんがな、あんなに一途に自分のことを愛してくれる人間のことを解りもしないで! そんな奴が書いた話に夢を抱いている読者が気の毒だよ」
 淀の言葉は俺が太朗に何をしたか見抜いているようで、俺は反論することさえ出来なかった。
「あいつは俺を責めたよ。自分だけ逃げて卑怯者だと怒鳴って涙を流してくれたよ、陽也の為に。俺を責めることが出来なかった陽也に代わって。会ったこともない人間の痛みを自分のモノとして感じることができる……そんなあいつが、ホレ込んだあんたを裏切るようなマネすると思うのか?」
 畳み掛けるように吐き出される淀の言葉に、俺は目からウロコが落ちるという気分を味わっていた。
 目の前のクマ野郎の言葉を素直に信じる気持ちにはなれないが、言ってることは良く解る。
 来る者は拒まず、去る者は追わず―――がポリシーの俺がどうしてここまで太朗に執着していたのか、淀に嫉妬等したのか。
 今、初めて気が付いた。
 太朗が一生懸命俺を求めてくれたからだ。
 もし太朗が押し付けがましく厚かましい奴だったらここまで長く付き合ってはいなかっただろう。さり気なく、あくまでも純粋に俺だけを求めてくれたから、居心地が良くて、その優しさにあぐらをかきつづけてたのだ。
『何があっても太朗は俺から離れていかないだろう』漠然とそんなことを考えていたのだ。
 悔しいが、目の前のクマに感謝しなければいけないだろう。
 俺がそんな殊勝な思いでいるというのに、淀はウエイトレスを呼び止めてお代わり自由のコーヒーを注いでもらっている。
 こいつは本当に小説も真っ青な経験をしたのかと疑いたくなってしまう程、落ち着いた風情で煙草に火を着け、湯気の上がるコーヒーを口に運んでいる。
 それを見ていると『こいつに太朗がなびくはずないじゃないか』と思い、改めて酷いことをしたのだと感じた。
 俺にも等しく注がれたコーヒーを見ながら、『こんなところで暢気にコーヒーを飲んでる暇なんかない。早く太朗に会いに行かなければと思う』思うが、自分のしたことを思い返すと、やはり立ち上がる勇気が沸いてこない。
 全く……俺とした事が情けない。
 俺の逡巡を見越したように「あんた」と淀が口を開いた。
「あんたが板東のことをどう思ってんのか知らないが、あいつのことを泣かせたら俺が許さないぜ」
 ジッと俺を見つめてくる瞳を負け時と見返すと、淀はフッと視線を反らせ煙草を深く吸い込んだ。煙りを細く吐き出しながら、その行方を追っている。
「あんたの中には“必死”って言葉はないのかもな。いるんだよな、そんな奴。仕事も恋も万事ソツなくこなして世の中を渡っていく奴。けどな一度くらい必死になってみるのもイイもんだと思うぜ。何かに対して必死になってる奴ってのは、例えそれがどんなにつまらない事でも『ガンバレ』って応援したくなるもんだ。まあ俺が言っても説得力はないかも知れないが、失くしてから後悔しても遅いんだ」
 小さく吐き出された言葉は俺を頷かせるのに充分な響きを持っていた。
 重い、重い言葉だった。
 その言葉に後押しされた訳ではない、決して違う―――と思いたい。
 俺はゆっくりと立ち上がった。俺を見上げて淀は煙草を灰皿に押し付けた。
「もし又あいつが泣くようなことがあれば、今度は俺が遠慮なく口説くから、そのつもりで」
 冗談だか本気だか判断しがたい笑みを漏らす淀を軽く睨んで俺も口を開く。
「それは出来ない相談だ。俺は太朗を手放すつもりはない。アイツは俺のものだ」
「信じていいんだろうな?」
「ああ、間違いない」
 俺ははっきりと頷く。奴は又、ニヤリと笑い伝票を取り上げた。
「それを聞いて安心した。俺が誘ったんだここは払わせてもらう」
「それじゃ、お言葉に甘えて。ご馳走さま」
 軽く会釈してクルリと背を向けた俺にもう一度声がかかる。
「明日、あいつが不機嫌な顔で遅刻しようもんなら、板東は俺が貰う。絶対、遅刻はさせるなよ!」
 俺は出口に向いながらヒラヒラと手を振ってみせた。
 淀の手前、悠然とドアを出た俺は、振り返ってアイツの注意がレジに向いている事を確認するや否や大通りまでダッシュし、丁度、通り掛かったタクシーを止め乗り込んだ。

車窓を流れる寝静まった街並みをぼんやりと見つめながら考えていたのは、一生懸命求めてくれた太朗に俺はキチンと応えてやっていたのだろうか―――と言う事だ。
 俺は好き勝手に行動して太朗が何を思ってるかなんて考えた事もない。
 太朗は俺を自由にさせてくれたのに、俺があいつに強いてきたのは束縛する事だけだった。
 太朗の都合など考えもせず、己の欲望のままに求め、『愛してる』とか『好きだ』とか、甘い言葉一つ言ってもやらずに……。
 それでも太朗は俺の事を好きだと、自分には勿体ない奴なのだと淀に言ってくれたのだ。
(失くしてから後悔しても遅いんだ)
 淀が言った言葉を思い出す。
 後悔はしたくない。失ってなるものか。
 これほどまでに執着した相手は初めてなのだ。
 俺にとっては最初で最後で、生涯の伴侶となるだろう。
 何としてでも太朗をもう一度この手に抱き締めなくては……と膝の上で拳を握り締めた時、タクシーは静かに止まった。

 俺達の母校近くの学生街の一角に太朗の住むアパートはある。
 阪神大震災クラスの地震がここを襲えば間違いなく崩壊しそうなボロアパートの二階の西の端―――それが太朗の城だ。
 玄関を入ると猫の額ほどの土間があり、その右手に管理人室、左手に木の郵便受けがある。その先の古びて軋む階段を足音を忍ばせて上がりながら、何と声をかければいいのだろうかと考える。
 共同トイレの前を通り過ぎ、考えをまとめる暇もなく俺は部屋の前に辿り着いた。
『十二号室 板東太朗』
 マジックの消えかけたプラスチックプレートの名前を確かめて軽く息を吐く。
 恐ろしく緊張しているのか肩に力が入っているのが判る。腕時計の針は既に真夜中、丑三つ時と呼ばれる時刻を指していた。
「太朗……いるのか?」
 時間を気にして小さく遠慮がちに声をかけたが、返事は返らない。
 もう一度、深呼吸をし、意を決してドアノブを回した。
 カギをかけ忘れたのか呆気なくドアが開く。
 立て付けの悪いドアを開けて俺は中へ入った。
 一畳ほどの申し訳程度にある流しに続いて六畳が一間。
 部屋が狭いために家具とよべる物はほとんどない。押し入れの上段がベッド代わり、下段はタンス代わりの収納庫。小さな出窓のカーテンレールにはジャンパーやコートなんかが掛けてある。家具の代わりに六畳を埋めているのはBOXを積み重ねた本箱もどきと唯一の趣味である、この部屋にはおよそ似つかわしくないフルセットのコンピューターである。
 それらの間のわずかなスペースに丸い背中が見えた。
 居てくれた事にホッとして三和土で靴を脱ぎ、部屋へ入ろうと敷居をまたいだ俺に、
「何を聞かれても俺の口からは言えない。いくら真理でもこれだけはどうしてもダメだ、譲れない」
 背を向けたまま太朗が言った。
 構わず近付いた俺は膝を抱えてうずくまる背中ごと太朗を抱き締めた。
 瞬間、腕の中で、昼間の行為を思い出したのか太朗の体が強張る。
 さっきの言葉といい、太朗全部で俺を拒絶しているように思ってしまう。
 俺は抱き締める力を緩めはしたが腕は解かずに、太朗の肩に頭を預けた。
 あれからずっとこうしていたんだろうか。
 抱き締めた太朗の体からは汗の匂いがした。
 改めて太朗の匂いを知った気分だった。たった半日、離れていただけだというのに。それすらも愛しいと思う。
相当、重傷だ。
 タクシーの中で考えていたより、遥かに俺は太朗に惚れている。
捨てられて無様に泣き喚くのは俺の方じゃないか?
 古いタイプのウインドファンが微かな音を立てて部屋の中に冷気を送り込んでいる。
 太朗は俺の腕の中で身動ぎもしない。寝ている訳ではない。窓から差し込む月明りに照らされている横顔はじっと前を見つめている。
 何を考えているのか判らない。
 触れるだけで相手の考えが読めるエスパーだったら良かったのに……などと子供地味た事を思ってしまう。
 全く俺らしくない。
 こうしていても埒が明かない。
 俺は体に回していた腕を解いて太朗の隣に並んで座り込んだ。顔を見る勇気はなかったから、同じように窓の外に目を向けて静かに口を開いた。
「淀さんと会った。あの人に全部聞いた」
「えっ! 全部聞いたって……何を?」
「何もかも全てだ」
「ホント……に?」
 驚いた声を上げて振り向いた太朗の視線を頬に感じながら俺ははっきり頷いた。
「呼び出されたんだよ。あの人はお前の電話で何かを感じ取ったんだろうな。俺がとんでもない誤解をしていると言って、何もかも話してくれた。疑って悪かった、済まなかった」
 俺は太朗に向かって頭を下げた。
「何? どうして真理が謝るんだ。やめてくれよ。頭を上げろよ!」
 俺らしからぬ仕草に太朗がオロオロと肩を掴んで揺すった。顔を上げる事ができないまま俺は続ける。
「俺がお前にした事は、謝って済む事じゃない。それで許されるとも思っていない。でもこうする以外どうしていいか判らないんだ」
 情けないけれど頭を下げて許しを請う事しか俺には思い浮かばなかったのだ。
「そんなことない。真理は悪い事なんか何もしてないだろ?」
 思っても見ない優しい声に誘われるように顔を上げると覗き込んできた太朗と目があってしまった。瞳の色がいつもと変わらず優しい色だったから、
「どうして俺を責めないんだ? 罵って怒鳴ってくれていいんだぞ?」
 などど聞いてしまった。
「真理だけのせいじゃない。素直に話さなかった俺にも責任はあるんだ、だからさ、お互い様だよ……それにね」
 どうしてそんな風にあっさりと言ってしまえるんだ?
 首を傾げる俺には構わず、
「俺だってエラそうな事言えないんだよ。編集長に頼まれて『任せてください』って胸叩いたくせに、真理の声聞けなくてイライラして、先輩の事疎ましく思った事もあったしサ……だから、同罪」
 と続けて小さく笑った。
「俺の声、聞きたかったって、本当……に?」
 信じられない思いで聞き返した俺から視線を外して太朗は返す。
「本当さ。最初の日は先輩の事があって忘れてた、これは謝る。でも次の日からは入れようと努力したんだ。そんな時に限って先輩の邪魔がはいるんだよな。ホント、憎らしかった。その時は先輩があんな大きな問題を抱えてるって知らなかったし、邪魔がなくなったらなくなったで真理つかまらないし……だから俺、一本きりの留守電、何度も何度も聞き返してた……だって初めての事だろ、嬉しかったんだよ」
 最後は小さく口の中に消えた。見つめている横顔が心なしか赤くなった。
「ありがとう……」呟きながら俺は堪えきれずに太朗に抱き付いていた。
「本当にどうしたんだ? 謝ったり、お礼を言ったり……真理らしくない。何か企んでんじゃないだろうな」
 戸惑いとからかいを含んだ太朗の言葉。
普通なら腹を立てているところだが……。
 淀から太朗の思いを聞いていた俺は覚悟の上で言っていると今では理解できる。
「何も企んでなんかないさ。本当に悪い事をしたと思うからだ」
 俺の言葉に振り返った太朗の目は信じられないものを見るように真ん丸に見開かれている。
「俺の事を一途に思ってくれるお前の事を一瞬でも疑ってしまった俺が馬鹿だったんだ。『あんた太朗の何を見てるんだ。たった五日間一緒だった俺でさえ解ったのに』って淀の野郎に怒鳴られるまで気付かなかった自分にホトホト愛想が尽きる」
「それって……」
 目を見開いたまま太朗が聞く。
「ああ、全部聞いたって言ったろ?」
 そう言っただけで太朗には解ってしまったようだ。見る見る頬が紅く染まっていく。
 俺は太朗の体を自分の方に向かせ、うつむく頬を両手で挟んで瞳を合わせる。小さく深呼吸をして「いいか、良く聞けよ」とこれ以上は無理と言うくらい真剣な表情を作って逸らそうとする太朗に念を押す。<BR>
 前にも太朗相手に一世一代の告白をした俺だが(あの時の告白が嘘だったとは言わないが)、今日は俺の嘘偽らざる本心を告げる訳だ。多少の演出は許されても良いだろう。
 俺の雰囲気に気圧されるように太朗がコクリと頷く。
「俺は、俺とお前の関係が間違ってるなんて思ってない。たとえ世間が二人の事をどういう目で見ようと関係ない。俺にはお前が必要だ。お前も知ってる通り、俺は自分本位で相手の事を思いやる事も優しい言葉の一つも掛ける事ができない。でも俺はこれまでこのスタイルで生きてきたから、努力はするがそう簡単には変えられないと思う。こんな俺でも、これから先ずっと一緒に居てくれるのか?」
 何だか情けないが声が震えてしまう。
これほど緊張するのは生まれて始めての事だ。
 顔を見ている事ができなくて太朗の手を取って自分の膝の上で握り締めた。
 太朗はされるがままで何も言わない、身動きもしない。
 気分は最後の審判を待つキリストだった。
 これほど緊張した事は未だかってない。ミステリー大賞の発表の方が遥かにリラックスしていたように思う。
 ふと、膝の上に置いた手の甲に暖かい物が触れた。
 ゆっくりと太朗に視線を戻すと俺をじっと見つめている太朗の瞳から涙が一筋こぼれている。予期せぬ事に俺は慌てふためいてしまう。慌ててポケットを探りハンカチを差し出しながら、
「あっ俺、何か泣かせるような事…したか?」
 なんてマヌケな言葉を吐いてしまった。これでは太朗と同じじゃないか。
「そうだ。みんなみんな真理が悪い!」
 受け取ったハンカチで乱暴に涙を拭いながら俺を見据えて太朗が言った。
「えっ!」
 こうもハッキリ『真理が悪い』と言われてしまって返す言葉が見つからず、俺は又、膝の上で拳を握った。
「今更優しい言葉を掛けて貰いたくなんかないよ。真理はそのままでいいんだ。俺はそのままの『俺様』な真理が好きなんだから。でも、今言った言葉、俺信じるよ? これだけ期待持たせたんだから裏切ったりしたら許さないからな」
 随分な言い方をされたが不思議と腹は立たなかった。恐る恐る顔を上げた俺の前には泣き笑いの太朗の笑顔があった。
それだけで十分だった。
「ああ。一生、お前だけでいいよ。俺には過ぎた相棒だよ」
「ホントに本当に、そう思ってくれる?」
 小首を傾げて聞いてくる太朗に俺ははっきりと頷いた。
「じゃあ、俺をあんまり甘やかさないでくれよな」
 太朗は安心したように微笑んでそんな事を言い始める。訳が分からずに今度は俺の方が首を傾げる番だった。
「俺、真理にメチャクチャ惚れてるけど甘えるつもりはないんだ。いつも真理と同じ視線でものを見ていたい。まだまだ追いつく事はムリだけど、このままで終わるつもりはないからさ。いつかきっと追いつくから……それまで待てる?」
 なるほど、そういう事か。何と健気な事だ。
 太朗の決心を聞いているうちに、先程までの殊勝な気持ちは何処へやら。普段の俺が返って来始めた。
「ああ、待っててやるよ。でもお前は追いついてこれないさ」
 ついそんな意地の悪い事を口走る。
「どうして!」
 すぐに太朗が反応し、気色ばんだ。
「俺だって何時までも同じ場所に止どまってる訳がないだろうが。お前が追いかけてくるんなら俺は掴まらないように逃げる。太朗に追いつかれないように今まで以上に頑張るとするよ」
「うっ……そうか、そうだよな」
 言葉を詰まらせ顎に手を当てて考え込んでしまう。首をひねりながら「でも頑張るのは疲れるんだぞ」とかなんとか呟いている。
 やっぱり、太朗は純粋かもしれないが自分で言う通り単純だ。でもそれがコイツの良いところなんだろう。
「そりゃな一人で頑張るのは疲れるさ。俺だってそんなのは御免被るよ。だろ。俺はお前の目標になり、お前は俺を脅かす存在になる。二人して凌ぎを削りあえば、それこそ一生、一緒にいられるだろう?」
 弾かれるように顔を上げた太朗に特上の微笑みを向け、俺はそっと引き寄せる。そして耳元で囁いた。
 冗談ではない本当の気持ちを―――。
「愛してるよ……太朗」
「―――!」<BR>
 真っ赤になって俯く太朗の肩を叩き、俺はやおら立ち上がる。
「さて、帰るぞ。一緒に来い」
「えっ、どーしてサ? 俺もう眠いよ」
「だからだよ。お前、シャワーも浴びてないだろ。臭うぞ」
「誰のせいだよ、誰の!」
「うっ、それは……まあいい。取りあえずマンションへ行こう」
 ぶつぶつ文句を言いながら、それでもおとなしく俺に従いタクシーに乗り込んだ太朗に、こっそりと事の顛末を打ち明ける。
失礼な事に太朗は目に涙を溜めて笑い転げたのだ。
「だからな、一緒に住もうって……」
「ストーップ。それは何度も断ってるだろう? 俺だって一人になりたい時もあるんだよ。一緒に暮らしてたら、そういう事できないだろう? それに真理んトコは空き部屋がないじゃないか」
 一々ご尤もな意見にしばしシートに身を沈めて俺は考える。
「そうだ引っ越せばいい、うんそれがいい」
 名案だとポンと手を打った俺の意見は、
「そんなムダな事することない。それに俺を甘やかすなって言っただろ。俺ちゃんと自分ん家の家賃ぐらい払える!」
 こっちに出てきてからずっと親に頼らずに独り暮らしを続けている男にしては経済観念が異常に発達している太朗に即座に却下される。
「それとも一緒に住むことにして、なんかあった時は、先輩んトコにお世話になろうかなぁ……」
 おまけにそんな事まで言い出されては、自分の提案を引っ込めない訳には行かなくなってしまう。
 淀の野郎のところなんぞに逃げ込まれるよりはボロアパートの方がましというものだ。
 それにしてもアパートを出てから、と言うか自分の本心を打ち明けてからと言うのか……俺の立場、弱くなってないか?
 そんな俺の心を知ってか知らずか……。
太朗は俺を伺い見て首を竦めてと小さく笑う。
「なんだ?」と肘でつつくと「嬉しいなぁ……なんて」と小さく答えが返ってきた。
 嬉しい―――一体何がだ?
 俺は顔にクエスチョンマークを張り付けて太朗を見る。
 よほど俺の表情がおかしかったのか口許に拳を当てて忍び笑いを続けている。
「だから、嬉しいって、なにがだ」
 もう一度肘でつついて答えを促すと「だってサ」と拳を当てたままでチラリと横目で俺を見、そして小声で続けた。
「妬いてくれたんだろう?」
「ばっ……なっ……」
 図星を指されて頬が熱くなるのが分かる。
言葉を返す事すら満足にできずに俺は腕を組んで憮然とした表情を作ると前を向いた。その肩にコトンと頭をもたせ掛けて「へへへ……な〜んか俺、幸せ〜」と太朗は笑った。
 全く! タクシーの中だというのに何と言うことだ。人の目を気にしろよ……とは思いながら、もたれた頭に自分も頭をぶっつけて、膝にのせられた手に手を重ねる。
 温もりが心地いい。
 しかし、このオイシイ状況を逃す訳には行かない。
俺ん家へ行けばこっちのもんだ。
 しばらく(といっても高々、半日程度のものだが)なりを潜めていた俺の仲の悪い虫が頭をもたげ始める。
「あっ、そうだ、真理……」
 思わずほくそ笑んでしまった俺の考えを見透かしたように太朗がこっそり耳打ちする。
「今日は何もしないで寝るんだぞ。俺、マジで起きる自信ないからな」

――――――で。
 二人仲良くバスルームに入ったのはいいが、それだけで終わる訳がない。
 さすがの俺も昼間の事があったから、最後まではヤリはしなかったが、お詫びの意味を込めて太朗自身を丹念に愛してやった。
 勿論、太朗も愛してくれて―――。
 抱き合って最後のときを迎えた。
 俺の腕の中、頭から降り注ぐシャワーの雨に濡れながら太朗が言った。<
「お帰り……真理」
 答える代わりに俺は口付けで返した。

 そして太朗は―――。
 ベッドの上で幼子のように体を丸め安らかな寝息を立てている。
 時刻は午前四時。
 俺まで寝てしまっては完璧遅刻。
 それでは淀の思う壺だ。
 俺はベッドにもたれ、眠気覚ましのコーヒーを片手に明けていく東の空を見つめていた。