お医者様でも草津の湯でも
Part 2

「ねえ先生ってさ、もしかして思い切り悪いほうだろ? 告白する前からそんなコト考えてたら何も前に進まないよ。それに断られるなんて決まってないじゃない」
「そりゃ、そうだろうけど……」
「もっと自信持ちなよ」
「そんなこと言ったってどうやって自信持てって言うんだよ。僕も先輩も男だぞ? それに先輩の周りには掃いて捨てるほど女達が群がってくるんだ。そんなのに勝てる自信なんてないよ、ハンデが大きすぎるよ……」
 一気にまくし立てた僕を元哉君は「ふ〜ん」と長身を屈めて探るような目で僕を覗き込む。
 綺麗に澄んだ目を見ていると男だとは解っていてもドキドキして訳もなく狼狽えてしまう。
「なっ……なんだよ」
「まさかとは思うけど。先生、診察もそんな調子でやってんの? 『自信ないよぉ〜』ってさ。それじゃ患者たまんないよ。オレ、アイツの主治医換えてもらおうかなぁ」
「そっ、それは困るよ。いくら僕だって仕事はキチンとやってるよ」
 慌てて言い繕うと元哉君は僕の肩を叩き「それ聞いて安心した!」と笑い「でもさ……」と言いながら僕の隣に腰を下ろした。
「医者っていうのは、患者や病気や怪我に対して色々シュミレーションするもんなのかもしれないけど、恋愛ってさ、そんなコトしても無駄だと思うよ。一人で悶々と悩んでたって解決しないんならさ、当たって砕けちゃったほうが楽じゃないか。それで人間大きくなるんだから……」
 僕より若いくせに妙に悟った事を言ってるなぁ……なんて感心してると、元哉君はニヤリと笑って「なぁーんてね。皆、智彦の受け売りだけどさぁ」と続けた。
「えっ?」
「アイツねオレが悩んでること知っててさ、そういう風に言ってくれたんだ。だからね……オレ勢いで告白っちゃったんだ」
 上手くいくなんて思ってなかったけどさ、と元哉君は頭を掻いた。
 そうか――川崎さんって優しい人なんだな。先輩にその半分でも優しさがあったらなぁ……まあ、無いものねだりをしてもしかたが無いけど。今までと同じようになるようにしかならないんだこれからも……。
「まあ先生が今のままで満足だっていうんならオレには何も言うことは無いけどさ。さっきも言ったけど告白ってみるって言うのも手なんだからね」
 元哉君はグイッと缶コーヒーを傾けた。
(満足してるわけじゃない。踏ん切りがつかないだけだ)
「考えてみるよ。それより、なんだか疲れてるみたいに見えるけど仕事きついの?」
 元哉君は昼間、会計事務所で働き夜は彼の叔母さんが経営するスナックで働いている。事故後もその生活を続けているみたいだけど、軽症だったとはいえ病み上がりの身体で掛け持ちするのはきついんじゃないんだろうか。
「大丈夫だよ。今はフロアーじゃなくて裏方にしてもらってるし。俺のことより先生のが心配だよ。チラッと見たけど胃の具合が悪そうだったじゃ無いか……」
 元患者さんに心配される僕って……でも素直に認めるわけにはいかない。誰がなんてったって僕は医者だから。
「有難うね。でも大丈夫だよ、夜勤明けで疲れてるだけだから」と僕は笑う。
 元哉君は「ならいいけど」と一つ頷き「そろそろ顔見に行ってこようかな」と立ち上がった。
「それじゃ僕も……帰る前に少しだけ様子をみるよ」
 風に当たって、元哉君と話をすることで少し気持ちが晴れた僕は連れ立ってICUへ向かった。

 ICUナースセンターのカウンター前で看護婦達が固まって一点を見つめていた。
 彼女達の視線を辿った僕の身体が硬直する。
 外来診療のはずの先輩が女性となにやら言い争いをしていた。一応、場所を考えているらしく小声ではあったけど……。
 あの後姿には見覚えがある。
 川崎さんの婚約者の塚田 加奈子さんだ。
(でもどうして先輩が?)
 僕の胃が又しても悲鳴を上げた。
 処置なしとばかりに小さく頭を振って顔を上げた先輩が僕の姿を見つけて驚き、形のいい口元が「バカ! 何しに戻ってきた」と動くのに合わせて「どこかへ行ってろ」と言うように顎をしゃくった。 
 でも僕は動けなかった。動かそうにも足に根が生えたように動かなかった。
 異変に気付いた加奈子さんが先輩が止める間も有らばこそ凄い勢いで振り返り、僕達の姿を認めると綺麗に描かれた眉が見る見るつり上がる。余りの壮絶な表情に僕の身体が強張ると同時に元哉君が背後に隠れようとする気配が伝わってきた。
(彼も怖いんだ……でも、隠れるなんてムリだよ)
 元哉君は僕より幾分細いってだけで背丈は殆ど変わらない。それに彼はヒールを履いているから後ろに隠れるなんてできる訳がない。
(でもそうしたくなる気持ちよく解るよ)
 遅まきながら先輩の意思を理解した。
 今や僕達は蛇に睨まれた蛙状態だった。
「大丈夫だから……」と囁いたのは自分の為だったような気がする。
 でもこのまま先輩だけに任しておく訳にはいかない。僕が行って加奈子さんの言い分を聞かなきゃ……。だって彼の主治医は僕だ。見て見ぬ振りできる訳が無い。
(落ち着け。こっちには何の落ち度もないんだ。だから何を言われても大丈夫……)
 胸の中で言い聞かせて僕は深呼吸をし、加奈子さんに向かって一踏み出そうとした。
「待ちなさい……」
 背後から穏やかな声が引き止めた。振り向くとメガネの奥に人の良さそうな笑みを浮かべた精神科医の寺岡先生が立っていた。
「……成る程、そういうわけね」
 僕の肩越しに素早く状況を把握したらしい先生は近くにいた看護婦の一人に何事かを耳打ちした。
「分りました」と頷いた彼女は先輩達のほうへ駆け寄って行った。
(どうなってるんだ?)
 首を傾げる僕の肩に寺岡先生が腕を回し、ICUとは反対の方へ歩き出す。
「ちょっ…寺岡先生」と足を止めた僕に、
「ここでは他の患者さんの迷惑になるからね、あっちで話をしよう」
 やはり穏やかな表情で笑って視線を元哉君に向けた。
「貴女も一緒にいらっしゃい」
「えっ……」
 どうしよう? と言った表情で元哉君が僕を見る。
(そんな顔されても……)
「何を遠慮してるの? 彼と一緒に居たのは貴女でしょう。だから聞く権利はあるんだよ」
 諭すような寺岡先生の言葉に戸惑ったような顔で元哉君は小さく頷いた。

「こんな所に連れ込んで、一体、どうするおつもりですの? 話し合いで私を懐柔しようたってそうはいきませんわ」
 入ってくるなり加奈子さんは居丈高に言い放った。
 先輩と僕は顔を見合わせて肩を竦める。元哉君は遠慮がちに部屋の端っこに立っていた。
「そう興奮なさらないで。まあ、どうぞお掛けください」
 笑顔を崩さず優雅に席を勧める寺岡先生は凄い、さすが精神科医だ……と当たり前のことなのに感心してしまう。
 目に見える怪我や病気は外科医や内科医でも治療はできる。でも患者が抱えているものはそれだけじゃない。心の中には計り知れない色々な悩みや不安を抱えていたりするものだ。その内面にあるものをカウンセリングを繰り返しながら根気良く探り出し、取り除いてあげるのが精神科医の仕事なのだ。
 それは患者の家族にも言えることだった。
 働き手が入院したり、慢性病の子供を抱えて看病と生活の板挟みで心身共に疲れ果てている人の話を聞いてあげ、さり気なくアドバイスするのも精神科医の仕事だったりする。又、手当てのかいなく亡くなったと言う事を家族に告げるということも時には引き受けてくれたりもする。
 考えれば僕達以上に辛い仕事かもしれない……。
 暖簾に腕押しのような寺岡先生の態度に勢いを殺がれてしまったのか加奈子さんは渋々ではあったけど、示された椅子に腰を下ろした。
 僕も先輩もそれに習うように腰掛けた。元哉君は僕の少し後ろに椅子を置いて座った。
 それを確認した寺岡先生がカンファレンスルームに常備している紅茶を丁寧に入れながら口を開いた。
「結論から申し上げますと、川崎さんの意識が戻らないのは医療ミスのせいではありません。彼の意思だと思います」
 皆の視線が一斉に寺岡先生の背中に集まる。
視線の集中砲火に気付いているのかいないのか、先生の態度に変化は見えなかった。
「……おっしゃる意味が解りかねますけれど?」
 真っ先に口を開いたのは加奈子さんだった。でも挑戦的に僕達を睨みつけて視線は外れない。
「言葉どおりです」
「なっ……!」
「落ち着いて下さい。お茶でもいかがですか? 中々いけるんですよウチの紅茶は」
「時間稼ぎをして私を誤魔化そうといってもそうわいきませんわ」
「別に誤魔化そうなんて思っていませんよ。ただ、心を落ち着けなければね、真実は見えてこないものですから」
 加奈子さんの怒りをサラリとかわして普段と変わらない調子で寺岡先生はゆったりと腰掛け話を進めていく。加奈子さんも負けてはいないけれど、さすがに先輩との言い争いで喉が渇いていたのか勧められるまま紅茶に口をつけた。合わせるかのように先輩も紅茶に手を伸ばす。
 でも、僕はそういうわけにはいかなかった。部屋に入ったときから忘れていた胃の痛みがぶり返してきていた。
 先輩と雅弘を見ている時のものとは全く違う痛みだ。
 ハンカチで口元を優雅に拭って加奈子さんは顔を上げた。さあ何処からでもかかってきなさい、と言う気概みたいなものが伝わってくる。
「先ほども言いましたように、意識が戻らないのは患者の意思だと思われます」
「そう思われる根拠は?」
 そうですね……と寺岡先生は僕を見た。
(うっ、何を言われるんだろう……)
 緊張で胃がキュッと掴まれたような気がする。
「執刀したのは彼ですが……」
「ええ存じ上げておりますわ。その時はまだ研修医だったのでしょう?」
 ねめつける加奈子さんの瞳が怖い。
「ええ、優秀な研修医でしたよ。今では優秀な外科医です。その後の検査でも患者さんは順調に回復されています。そうだよね加藤先生」
 何を思ったのか寺岡先生は身を乗り出して先輩に聞いた。
「ええ。私も立ち会っていましたから。手術自体には何の問題もありませんでした」
 先輩は雅弘に答えた時と同じ言葉を繰り返した。
「立ち会っていらしたなら、どうして貴方が執刀して下さいませんでしたの? 研修医ごときにお任せになるから……」
 こんなことに…と続けようとした加奈子さんの言葉を「お言葉ですが」と先輩は遮った。
「……私の目から見て、それほど難しい状態ではなかったんです。確かに重傷ではありました。が、脳に損傷はありませんでした。ですから彼に任せても大丈夫だと私が判断しました」
「それならどうして意識だけが戻らないのですか! おかしいとはお思いにはなりませんの?」
 何をどう話そうとココへ戻ってきてしまう。これじゃ堂々巡りだよ。どうするんだろう寺岡先生。
「手術自体に問題もなく身体も順調に回復しているのに意識だけが戻らない。それはやはり患者の側に問題があるんです。簡単に言えば彼の心の中になにか引っかかることがあってそれが覚醒めることを拒否している――という事ですね」
「ではどうすれば目覚めるのかしら?」
「心の中の引っ掛かりを取り除いてあげること―――でしょうね」
 こともなげに寺岡先生は言うけど、それがなんなのかが判らないんだ。意識が戻らないからカウンセリングも出来ない、八方塞状態だ。
「事故に遭ったということは只のきっかけに過ぎないんですよ」
「きっかけ?」
 思わず口をついた言葉に寺岡先生は「そうだよ」と頷いた。
「その引っかかり自体は初めから彼の心の中にあった。もしかしたらその事で悩んでいたのかもしれない。それを言い出せないまま、解決できないまま事故に遭ってしまった。彼にとって非常にいい状況になった訳だね」
「だから、目を覚まさないと?」
「まあ一種の“逃げ”なのかもしれないけれどね。その根本にある“引っかかり”を取り除いてあげないと彼の意識は戻らないだろうね」
「どうしたらいいんでしょう?」
 そうだね……と寺岡先生は腕を組み、
「方法が無いことも無いんだけどねぇ……」と僕の隣の先輩を伺うように見た。でも先輩は小さく肩を竦めただけで返事は返さなかった。
 当たり前だ、外科医にとっては専門外のことだから。僕だってなんとかしてあげたいとは思う、元哉君の為に、そしてかわいそうな僕の胃の為にも……。
 誰も口を開かず重苦しい空気がカンファレンスルームに漂っていた。
 沈黙を破ったのは加奈子さんだった。
 彼女は颯爽と立ち上がり僕達をジロリと一瞥すると「問題を取り除けばよろしいんですのね」と寺岡先生に問い掛けた。
「ええ。その方法が見つかればね……」
 その言葉を聞いた加奈子さんが元哉君を見据えて勝ち誇ったように言った。
「見つけましたわ、私。そんな簡単なことでしたのね。明日もう一度越させていただきます。それでは皆様、ごきげんよう」
 ツンと顎を上げたまま加奈子さんは社交辞令を口にして背中を向けた。
「なんだ、ありゃ? 本当に解ったのか」
「さぁてね」
 加奈子さんが居なくなった途端、くだけた口調になった二人の先生の後ろでガタンと派手な音がした。
 真っ青な顔で元哉君が部屋を飛び出した。
「ちょ、ちょっと君、立川さん!」
 寺岡先生も先輩もほっぽって僕は慌ててその後を追いかけた。
 チラリとエレベーターホールを伺うとまだ加奈子さんが居た。
 元哉君の姿は無い……。
(…だとしたら階段か!)
 身を翻して反対側にある階段を一段飛ばしに駆け下りて、病院の玄関を出て行く後ろ姿を見つけた。
 早くとめなきゃ…。部屋を飛び出した元哉君の顔色は尋常じゃなかった。きっと寺岡先生の言葉に何かを感じ取ったのだ。
当事者じゃなきゃ解らないなにかを―――。それがなんなのか僕には解らない。でも話を聞かなきゃいけないと思った。彼もまた僕の患者なのだから。
 夜勤明けで悲鳴をあげる身体を叱咤して彼の後を追掛けた。

 緑が溢れる病院の中庭は患者達の憩いの場だ。自力で動ける人もそうでない人も回診後の自由時間を思い思いに過ごしている。
「オレがどうしてこんな格好してるのか言ってなかったよね」
 木陰になったベンチに腰掛けて元哉君が聞いた。
 艶やかなストレートヘアに隠されて表情は見えない。でも意外としっかりとした声音に僕はそっと胸をなでおろす。
玄関に続くローターリー付近で元哉君を捕まえた僕は、中庭へと戻ってきていた。顔色も幾分青ざめてはいるけれど、さっき程ではなかった。
 元哉君は何に気付いたんだろう―――。
「……聞いてくれる?」
 足元を見つめたまま元哉君が呟く。
 返事が欲しかった訳じゃなさそうだったけど黙ってるのも落ち着かなくて「うん……」と小さく答えた。
「この格好だと自然だろ? 腕組むのも喫茶店入るのも……街中でキスするのだって。仲間同士でふざけてても男同士でジャレれてると妙な目を向けられたりする。でも男女なら受け入れて貰えるんだ―――」
 それは僕にも良く理解できる。僕だって何度もそう思ったから。でもそれって……。
「辛くないかい?」と聞くより早く元哉君が口を開いた。
「先生の言いたい事解るよ……辛くないって言ったら嘘になる。だってオレ、別に女になりたい訳でも女装癖があるわけでもないからさ。オレはただアイツが好きなだけ。好きになった相手が智彦だっただけだ。でもさ、世間体とかあるじゃない? 婚約者をほったらかしてまでオレの気持ちを受け入れてくれたアイツを困らせたくなかっただけなのに……」
 元哉君は俯いて両手で顔を覆った。
 男にしては細い肩が小さく震えていた。僕は伸ばしかけた手を引っ込め胸の前で拳を握った。
 だって何て言えばいい?
 元哉君の気持ちや、やってきた事が悪いだなんて思えないし、一歩間違えばそれは僕の姿だったかもしれない―――。
 僕達の間を湿った風が吹き抜けた。
 不意に元哉君が顔を上げ「しまったなぁ、間違えちゃった……こんなことになるんなら一度でいいからエッチしてもらっとくんだった」とこれまでとは裏腹な声色でポツリと言った。
「えっ……?」
「信じられる? オレ達清いお付き合いしかしてないんだよ? 付き合って半年にもなるのにさぁ……キスだけしかしたことないんだよ」
 驚いて隣の綺麗な横顔をまじまじと見つめた。
「良かれと思ってやったんだけど、今度ばかりは裏目に出たなぁ。アイツの心に負担かけてたなんて思ってもみなかったよ」
 いっそ明るく言って元哉君は微笑んだ。
 でもその微笑が淋しそうに見えたのは僕の気のせいだろうか?
「先生ごめんね。夜勤明けで疲れてんのに遅くまでつき合わせてさ。オレ、帰るよ。又、明日来る」
 ヨッ! と声を掛けて勢い良く立ち上がった元哉君は「じゃあね」と片手を上げて走り去った。

 次の日、宣言どおり加奈子さんはやってきた。
 今度は強硬手段に訴えるらしく周囲の意見には全く耳を貸さず、さっさと転院の準備を整えている。
 彼女はやはり毎日やってくる元哉君を邪魔な存在だと思ったんだろう。彼の手の届かない所に川崎さんを連れ去ることで意識を戻させようというのだろう。
 でも、それで本当に川崎さんは目をさますのだろうか?
 どうやって手に入れたのか院長の『転院許可書』まで用意する周到さで誰にも口を挟むことは出来なかった。
 主治医のはずの僕も寺岡先生も―――。
(でも黙って行かせていい訳がない。こんな中途半端な状態で患者を手放なしちゃダメだ)
「ちょっと待ってくださいって! そんな勝手なことされたら困ります!」
「勝手なことですって? 私は院長先生に許可をいただいておりますの。アナタの方こそ勝手な事をなさると只ではすみませんわよ!」
 形振り構わずストレッチャーに飛びついて必死で止める僕の手を加奈子さんは乱暴に振り払う。それでも僕は全身の力で縋りついた。
「待ってください!」
 小競り合いが続くICUに凛とした声が響いた。
 驚いて振り返った視線の先に、品のいいグレーのスーツに身を包んだ青年が居た。
 背筋をピンと伸ばして立つ青年の澄んだ瞳には何処となく見覚えがあるような気がした。その彼は視線を揺るがすことなくただ一点を見つめていた。そう、川崎さんのいるベッドを―――と言うことは……。
「君………立川さん?」
 僕の声にその場にいたスタッフの間に戸惑いのどよめきが広がっていく。
 そりゃそうだろう。僕が呼んだ名前は立川さんでもその姿は昨日までとは180度違ったんだから。
 はじめて見る元哉君本来の姿に僕は言葉も出なかった。
 周囲の視線など気にすることなく決意を秘めた表情で元哉君は静かに深々と頭を下げた。
「皆さんご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした。加奈子さん、智彦さんをお返しします」
「あなた……あなた……」
 余りの衝撃に口をパクパクさせる加奈子さんの隣を足早に通り過ぎ、元哉君は川崎さんに近づいた。
 掛け布団の中からそっと取り出した手を握り暫くの間、恋人の寝顔を凝視めた後、静かに上体を傾けその唇にキスをした。
 誰も口を開かなかった。
 僕の目に二人の姿は厳かで神聖なモノとして映った。
 恋人の為を思って静かに身を引く。こんな愛し方もあるのだと思った。
「さよなら智彦。今までありがとう……」
 名残を惜しむように頬を撫でながら元哉君は呟いた。そしてもう一度キスするとクルリと背を向け、振り向きもせず去っていこうとした―――その時。
「――――行くな、元哉」
 事故以来眠り続けていた川崎さんが声を発した。


「森先生〜今日は宿直だってね」
 午後診終了後の廊下を今日も思わしくない胃を抱えて歩く僕に聞き慣れた明るい声が掛かる。声の主も出所も判ってる僕はゆっくりと振り返る。果たして、視線の先に見えるリハビリ室で平行棒に掴まって立つ川崎さんを支えた元哉君がこれ以上ない笑顔で手を振っていた。
(いいねぇ幸せそうで……それに引き替え僕は……)
 他人と比べちゃダメだって解っているんだけど元哉君を羨ましく思うことを止められない。
全く成長しないよなぁ……。

 瞬く間に一ヶ月が過ぎた。
 川崎さんの意識が戻って悩みの一つは解決したはずなのに胃の調子は更に悪くなった。
 いよいよモノが食べられなくなっていた。
 少しでも形のあるモノを食べると途端に胃が痛み出し、吐き気が込み上げてくる。そうかといって何も食べないでいる訳にもいかなくて、無理して食べては吐くを繰り返していた。でもコレじゃダメだと思い直して、唯一口に出来る栄養ドリンクと市販の胃腸薬に頼る毎日だ。かなりヤバイとこまできている事は解っているのに行動に移す気力すらないのだから何ともはやだ。
 それでもダメージがいくらか少ないのは目の届く範囲に雅弘がいないからだ。
 昨日から先輩が出席するシンポジウムにアシスタントとして同行しているのだった。
 先輩の姿がないのは淋しいけれど、雅弘がいないのはホッとする。仲良く寄り添った二人を見るのは元哉君達を見てるより遥に辛い。
(ダメだなぁ……加奈子さんの半分でも僕に強さがあったらなぁ……)

 あの日、目覚めた川崎さんは思いの外ハッキリした声で貯まっていた思いを吐き出した。
「そのままの元哉が好きだ。俺がハッキリ言わなかった為に要らない心配をかけたね。ずっと一緒に生きていこう……」
 置かれている状況すら解っていなかったんだろう。公衆の面前で堂々とカミングアウトとプロポーズをやってのけたのだ。
 寺岡先生の言っていた“心の引っかかり”って言うのは元哉君の女装だったようだ。
 彼が女装を解いて本来の姿に戻ったことで川崎さんの引っかかりが無くなり意識が戻ったという訳だ。
 皮肉な話だ。
 別れようと本来の姿に戻ることで元哉君は川崎さんをゲットしたんだから。
 それに引き替え気の毒だったのは加奈子さんだ。
 婚約者を男に取られた上に婚約破棄まで言い渡された訳だから。
 突然のカミングアウトにスタッフは少なからず驚いたようだった。それでも好意的に受け入れられたのは、嵐のように現われては言いたい放題、やりたい放題の加奈子さんに対して余りいい感情を持っていなかったからだろう。
 実際、周りを無視して自分達の世界に浸る彼らは、男同士とはいえお似合いだった。
 それでも彼女は最後まで毅然とした態度を貫き通した。
「このお話は私の方から破談とさせていただきますわ。ごきげんよう」
 プライドを崩すことなくツンと顎を上げ気丈に言い放つとICUを出て行ったのだ。
 唖然とするスタッフ達に優雅に頭を下げて。
 彼女の…ううん、女性の強さをまざまざと見せ付けられたような気分だった。
 僕にその強さがあったらと思う。
 そうすればこの胃の痛みともサヨナラできると思うのに……。
 未だに決心がつかないままで……。
 僕も“逃げ”ているのだろうか。

 ハァ〜と、癖になっている無意識のため息をつく僕に何かを感じたのか元哉君は川崎さんに何事かを囁くと、こちらに向かって走ってきた。そして有無を言わさず僕の腕を取ると喫煙ルームに連れて行った。
 一番奥のベンチに僕を押し込み元哉君は伺うように僕を見つめる。
 本来の姿に戻った元哉君は、女装していた時の片鱗すら見えないというのに充分、綺麗だった。
 愛されているという自信が彼を綺麗に見せているのかな……そんな事を思う。
 澄んだ瞳に黙って見つめられるという居心地の悪さに僕は白衣のポケットを探り、最近吸い始めたタバコを一本取り出した。
タバコが身体によくないことは医者として百も承知だけれど、口寂しさを紛らわすのにはこれが一番だった。
 慣れない手つきで火をつけようとした僕から元哉君がタバコを奪い取り備え付けてある吸殻入れにほうり込んだ。仕方なくもう一度ポケットを探り取り出した箱まで取り上げられる。
「なにするんだ!」
 取り返そうと伸ばした僕の手から逃げるように元哉君は身体を反らせ、タバコを後ろ手に隠してしまった。
「何するんだじゃないよ。一体、どうしちゃったの? タバコなんて……」
「別にどうもしないよ。ただの精神安定剤さ。返してくれよ」
 突き飛ばすようにたばこに手をのばそうとした僕を身体をねじって元君はよける。
「こんな物に頼らなきゃいけないなんて、何をそんなに不安になってるんだよ」
「君には判らないよ。欲しい人の心を手に入れた君には僕の辛さなんて判る訳がない!」
 言葉を吐き出してしまってからハッとする。
 これは全くの八つ当たりだ。
 元哉君にはなんの責任もないのに。
 惨めな思いで唇を噛み締め顔を背けた僕に元哉君の呟きが聞こえた。
「そりゃ判らないよ。オレは先生じゃないから。でも……」
「だったら! だったら放っておけばいいだろ! それにあの時言ったじゃないか。先生が満足してるんならオレには言う事はないってさ。なのに今更……」
「放ってなんて置けない!」
 何時になく強い口調で返されて僕は元哉君を見る。
 綺麗に澄んだ瞳と僕の視線がぶつかった。迷いのない真っ直ぐな瞳で元哉君は言った。
「全然、満足してるようには見えないよ。それどころか見かけるたびに顔色が悪くなってる。なのにどうして放ってなんておけるんだよ。自分が幸せだから他人はどうでもいいなんて、オレそこまで酷い男じゃないよ」
「ゴメン……そんな風に言ったつもりじゃない……」
 判ってるって、と元哉君は僕の肩をポンと叩いた。
「先生がそんな人じゃないくらいオレ知ってるから。安心して」と元哉君は笑った。そして僕の肩を引き寄せる。僕はされるがまま彼の肩に頭を預けた。
 寄せた身体の暖かさに少しだけホッとする。
「満足してるんならオレに言う事はないって言ったけど、あの時もこうも言ったはずだよ。告白するって言うのも手なんだよって。そりゃ告白したからって受け入れてもらえるかどうかは判らない。だって人がいるだけ愛の形があるんだし」
「………そうだね」
 僕はコクリと頷いた。
「本当に好きなんだね、加藤先生のことが……。でも気持ちも解らなくないかな? イイ男だもんね、智彦には負けるけどさ」
 茶化して言ってくれた元哉君の声が胸に染み込んでくるような気がして、ほんの少し泣きたくなった。
 小さく頷いた僕の目の前にタバコの箱が差し出される。
「えっ?」
「はい返したげる。これに頼る事で先生が楽になるんだったらそれでもいいよ。でもさ、それよりももっと良い奴があるんだよ」
 肩から手を放した元哉君は隣に置いた可愛らしい包みを取上げニッコリと笑って差し出した。
「俺のお手製弁当だよん。これ食べて元気だして」
「えっ、でも……これ」
 戸惑い気味に弁当と元哉君を見比べると、元哉君は誇らし気に笑った。
「病院の食事に飽きたってわがまま言う智彦の分を作るついでに作ったんだ。智彦の分はちゃんとあるから安心して食べて。食べれるだけでいいからさ」
 味の保証はできないけどね、と元哉君は又、笑った。
「……有難う」
 僕は素直に弁当を受け取った