お医者様でも草津の湯でも
Part 3

“ピピピ……”
 不意に呼び出しのベルが耳元で鳴り、慌てて飛び起きる。
 机の上には元哉君から渡された弁当が手付かずのままで置かれていた。
 ついで…と元哉君は言ったけど、本当は川崎さんの分だったんだろう。蓋をあけてそう思った。でも、そこまでしてくれた彼の気持ちが嬉しくて、一応、食べようと努力はした―――だけどやはり胃は受け付けてくれなくて、箸を手にしたまま元哉君に言われた事を考えているうちに何時の間にか机に突っ伏して寝ていたようだった。
「折角の好意を無駄にしちゃった……ゴメンね、元哉君」
 開いたままの弁当にふたをして立ち上がる。
 ぼんやりとしているヒマはない。
 小さく頭を一振りして僕は宿直室を飛び出した。

 飛び込んだ救急センターは戦場と化していた。
「どうした?」
 白衣に腕を通しながら近くにいた看護婦に聞く。
「ああ、森先生。自殺を図った患者さんです」
「自殺か……どんな状態?」
「それが、どうも割腹自殺らしいと……」
 な、なんだって? 腹をかっ捌いた?
 で、意識レベルは? と聞く間もあらばこそ、けたたましいサイレンを鳴らして救急車が到着しストレッチャーが入ってきた。
 患者を見て僕は息を呑む。
 身体を覆うように掛けられたシーツの腹部が真っ赤に染まっていた。それだけで患部の状態が判るようだった。それでも患部を確認しないわけはいかなくて……救急隊員が状況を説明している声を耳の端に止め、頭の中に叩き込みながらシーツを捲り上げて絶句した。
 口の中が苦い物で一杯になる。
 何を思ってこんなことをしたのか、勢いに任せて刃物で切りつけたのだろう傷口からは腸の一部が飛び出していた。
(僕の手に負えるのか?)
 瞬間、川崎さんの事が頭の中を過ぎった。
 あの時のように背中を押してくれる先輩はいない。もし又、川崎さんのように意識が戻らなかったら?
「他の先生方は?」
 無駄だと思いつつそう聞いた。センターへ飛び込んた時から僕よりベテランの先生の姿は見えなかったのだから。
 この時期、教授クラスの先生方は学会や各専門のシンポジウムへ参加することが多い。必然的に経験の浅い僕をはじめとする若い医者が留守を預かることになってしまうのだ。
「……どの先生も捕まらなくて……連絡がついたのは加藤先生だけで、でも先生もどんなに急いでも朝になるとの返事で……」
 テキパキと手際よく処置の準備を整えながら早口で告げる看護婦の予想通りの返事に僕は腹を括り、こみ上げてくる吐き気を飲み下す。
 迷っている暇なんてない。事態は一刻を争うのだ。
「判った。空いてる手術室は?」
「第二が……」
「じゃあ直ぐに準備だ。急いでね」
 走って準備室に飛び込み手術衣に着替える。
 身体を消毒しながら、鏡に映る自分の顔を見る。
 情けないことに真っ青だった。
 ここまで来たら腹を括るしかない。
 元哉君の言う通り逃げてばかりはいられない。
 それにこの場を一人で乗り切る事ができたら打ち明ける勇気が持てるかも知れない。
「大丈夫! きっと出来る!」
 言い聞かせるように顔を叩き、手術室に入った。

「先生、お疲れ様でした」
「君たちも良く頑張ったね。ありがとう……」
 患者を乗せたストレッチャーが静かに手術室を出て行く。それを見送って僕は小さく息を吐いた。
 かなり時間はかかったけれど、患者の命をこの世に繋ぎとめることが出来た。それは僕だけの力ではなくて、この手術にかかわった者達の力なのだけれど。
 でもこれからが大変だ―――と思う。
 自殺を図るほどだからなにか心に大きな問題を抱えているのだろう、その証拠に腹部以外にも“躊躇い傷”と呼ばれる刃物の跡が何箇所かあった。
 それが何かは僕には判らないけれど、それは寺岡先生に任せるとしよう。
(でも……疲れたなぁ)
 僕は手術衣を脱ぎ捨てソファーにへたり込んだ。
 手術が成功し満足する心とは裏腹に身体は泥のように重くて指一本持ち上げる事も億劫だ。
 このまま寝てしまいたいと思うけど、僕にはまだ大きな仕事が残っている。
先輩に自分の気持ちを伝えるという―――仕事が。
(取りあえずシャワーを浴びてスッキリしよう―――)
 よほどの事がない限り容態が急変することはないだろう。
 ソファーと仲良くしたがる身体を宥めながら立ち上がった時、乱暴にドアが開いた。
 その音に弾かれるように振り返った視線の先に、髪を振り乱した先輩の姿があった。
(先輩、遅いじゃないですか。何やってたんです?)
(もう、終わってしまいましたよ?)
(先輩、僕、先輩のことが……)
 言いたい事は山ほどあった。
 でも実際、僕は口を開く事さえ出来なかった。
 先輩の顔を見た途端、僕の意識は途切れたのだった。


 かすかに話し声が聞こえて目を開けた。
「気が付いたかい。気分はどう?」
 気遣うような声で覗き込んだのは寺岡先生で、
「全く! このバカは」
 遠慮なく大音量で頭ごなしに罵倒してくれたのは先輩だった。
「すっ、済みません……っ!」
 慌てて飛び起きようとして、クラリと眩暈を感じ布団に倒れこんだ。
「バカか……そんなに急に起き上がる奴があるか、血圧も下がってるんだぞ!」
 又しても遠慮なく怒鳴りつけた先輩の肩を寺岡先生が宥めるように叩く。
「そこまでで止めとくようにね、加藤先生。心配してるのは判るけど、患者には優しくが我病院のモットーだ」
 知ってるよね? と微笑まれて先輩はバツが悪そうな顔で頷いた。
 さすがの先輩も寺岡先生にかかっちゃ形無しだ。
 寺岡先生にやり込められてぶうたれる先輩を見て僕は少し溜飲を下げた。
 そこで僕はあることを思い出し恐る恐る口を開いた。
「あの……割腹自殺の患者の具合はどうですか?」
「全く、自分が病人の癖して暢気に患者の心配してる場合か?」
「医者が自分の執刀した患者の心配して何が悪いんですか! それになんですか病人って!」
「もしかして、お前、自分の立場解ってないのか……?」
「………?」
 首を傾げた僕を先輩は見下ろし大袈裟に首を振った。「やってられない」とでも言いたそうな表情で……。
「自分の健康管理も出来ないような奴に医者を名乗る資格なんてないぞ。確かにお前は良くやったと思う。容態は安定しているからあの患者は俺が引き継いで診てやる。だから仕事の事は少し忘れて自分の身体のことだけ考えろ!」
 乱暴な言い方だったけど先輩の言いたい事は解った。
 ホッと胸をなで下ろし、遅まきながら僕は自分の姿に目をやった。
「えっ、病衣? あれ、点滴……」
 間抜けなことに今初めて自分の置かれている状況が解ったのだ。
 僕がいるのは救急外来の奥の処置室で、カーテンで仕切ってあるから他に患者がいるのかどうかは解らないけど、ベッドで点滴に繋がれているのだった。
(ひょっとして、病人って僕がですか?)
 上目遣いで自分を指差した僕に寺岡先生は頷いた。
「かなりムリをしてたんだね。そこらじゅうにダメージを受けてるよ。胃にもね穴が開いてる」
 二つもだよ、と寺岡先生は指を2本立てて見せた。
(そうなんだ―――)
「全くな。人の顔見るなり気を失いやがって……あれ程、ムリをするなと忠告してやったのに、このバカが……」
 先輩が苦虫を噛み潰したような顔で言った。
 バカってことはないだろう。そりゃ言う事を聞かなかった僕も悪いけど、言うに事欠いてバカって―――。
「加藤君、ちょっと言い過ぎ」
 先輩は又、寺岡先生に窘められていた。
 クスリと笑いを洩らすと寺岡先生は僕に向かって小児患者に対するように「メッ」としてみせた。
「確かにね、褒められたことではないよ。でも、森君だからここまで我慢が出来たんだ、他の人間だったら早々に音を上げてたはずだ。だからこの辺りでちょっと休憩したらいいね。そろそろ外に出ていた先生方も戻られるから。検査入院ってことでね」
 そこまで言って寺岡先生はただね……と表情を曇らせた。>
「なんですか?」
「今、ウチの病院満床でね……」
 先生の言わんとするところは理解できたから、
「そういうことなら、待ちますよ僕。今すぐどうこうって―――」と頷いた途端、頭を思いっきりどつかれた。
「いたっ! 何するんですか! いきなりぶつことないでしょう!」
 僕は先輩を睨みつけた。すると先輩は握り締めた拳をブルブル震わせて更に大音量で「このバカ!」と怒鳴りつけた。
「バカバカって言わないでくださいよ!」
「バカにバカと言って何が悪い。そんな悠長なことを言ってる場合じゃないって事がまだ判らないのか!」
「だって……」
「だってもへったくれもない!」
 思いっきり言われて僕は首を竦めた。
 傍では寺岡先生が笑っている。
(笑ってないで助けてくださいよぉ〜)
 視線で縋ってみた僕を無視して寺岡先生は意味ありげに先輩に向かって首を傾げてみせた。
 先輩は小さく咳払いすると「とにかく、お前には入院治療が必要なんだ」と言った。
 はい。それは判りました。でも今、満床状態だって言ってたじゃないか。それをどうしろって言うんだろう?
 僕は黙って先輩の言葉を待った。
「勝手な事をして悪いとは思うが、お前が眠っている間にウチの病院で手続きを済ませた。この点滴が終わり次第移動するからそのつもりでいろ」
 早口で言うとクルリと背を向け「着替えを取ってきてやる」と病室を出て行った。
「全く、素直じゃないんだからね、二人とも……」
 展開の早さに頭がついていかず寺岡先生の呟きの意味を聞き返す事もせず、僕は先輩の消えたドアを見つめていた。

「なんで僕がアンタの運転手をしなきゃいけないんだよ。シンポジウムのレポートを書かなきゃいけないって言うのにさ……ホント、迷惑だよ!」
 病人に向かって容赦ないセリフを吐いてくれるのは雅弘だ。
 点滴が終わるのを見計らったように病室に姿を見せた先輩は、有無を言わさず僕を車椅子に乗せると玄関まで運んだ。
「この際だ。遠慮せずに徹底的に見てもらえ」
 ありがたい言葉と一緒に押し込まれた車の運転席にいたのは雅弘だった。辞退しようと振り返るより早くドアが閉められ車は走り出してしまったのだ。
 諦めてシートに凭れこんだ僕に雅弘のこのセリフだったのだ。
「僕だって君の世話になろうだなんて思っちゃいないよ。何ならここで降ろしてくれてもいいんだよ。病院の場所は分っているし、電車ででも行ける」
 売り言葉に買い言葉―――何時もの調子で言葉を返しはしたけど身体は重いしふらつきも取れていない、でも反論した手前じっとしていることも出来なくて、僕はノブに手を掛けた。
 ルームミラー越しに肩で息をする僕を見て慌てたのは雅弘だ。
「全く、冗談と本気の区別もつかないの? そんな事をする訳ないだろ。僕だって医者の端くれなんだから病人を放り出すようなことはしないさ」
 その言葉をまるっきり信じるほどおめでたくは無いつもりだけど、さすがに反論する力はなかった。
「……迷惑をかけて済まないけど。よろしくお願いするよ」
 半端でなく重い身体をシートに沈めて僕は目を閉じた。

 この病院に来るのも久しぶりだなぁ……と感慨に浸るヒマなく検査室にほうり込まれた。
 あちらこちらと連れまわされて健診の大変さに改めて驚く。患者に対して指示したことはあったけどこれほど疲れることだとは思わなかった。予約を入れているにも関わらずその通りにはいかないものなんだとはじめて知った。
 自分が患者という立場にならなきゃ絶対に分らないことだった。
「怪我の巧妙だなぁ……」
 なんて妙なことに感心してしまう。
 最終目的地である病室に連れてこられた僕は目を丸くした。
「ここ……ですか?」
 首を傾げ、車椅子を押してくれる看護婦さんを振り返る。
「ハイ。公嗣先生とは古いお付き合いなんですってね」
「ええ、まぁ……」
「だからかしら、特別な患者さんなので、くれぐれも粗相のないようにと言われてます」
 ニコニコ笑って、母親ぐらいの年令をした彼女は車椅子を押して病室に入っていく。
 ―――って僕の何処が特別の患者だって言うんだ?
 何処をとっても平凡でしかないこの僕の!
 先輩、何を考えて手続きしたんだか。
 だってここ『特別室』だぞ?
 他のフロアは4人部屋が6室とごく普通の個室が6部屋。なのにこのフロアには個室が3室しかない。
 病院独特のざわめきもなく、シーンと静まり返っている。
 常にざわめきの中に居るから返ってそれが不気味だったりするんだ。
 看護婦さんは優しいほほえみを浮かべ「何か不都合な点がありましたら、ベッドの脇のナースコールを押してくださいね」と言い置いて出て行った。
 僕は改めて部屋の中を見回した。
 ベッドに応接セットに冷蔵庫にテレビにシャワールームまである……落ち着いた壁はベージュで統一されて、ちょっとしたホテルのスイート並みの部屋だった。
 おまけにベッドは広いしフカフカとしてて寝心地も良い。恐ろしく堅い寮のベッドとは大違いだ。
 ああ、幸せ……なんて暢気な事言ってる場合じゃないぞ。
「一体、幾らするんだろうココ……」
 ふと現実に立ち戻る。
 ウチの病院の特別室は一泊5万円だと聞いたことがある。研修医時代に院長回診で一番後ろから覗いた設備より、こちらの方が遙に凄いように思う。 
 いくら僕が医者で、同年代のサラリーマンより高給取りだと言っても、この病室は―――。
 最低5万円として、検査期間が一週間……とすると―――。
 5万円×7日=35万!
 それに検査料・処置料・点滴に内服薬料その上に食事代が加算されて。保険を適用したとしても……そこまで考えると背筋を冷たいものが走った。
「………ムリ、絶対ムリだ、払えっこない!」
 僕がプルプルと頭を振った。クラリと眩暈がしたけどそんなこと気にしてられない。
 今から病室を替えてくれと言っても恐らくは無理だろうから、今日のところはここを使わせてもらうとして、明日、先輩に電話して部屋を替えてもらうよう頼んでみよう。
 万が一ムリだった場合は通院という方法もある。罹りつけだけあって実家からは近いし、大人しく寝ているだけなら自宅の方が気が楽だ。
 今の段階ではそれが一番いい方法だと思った。
(そうと決まれば、ゆっくりしよう……)
 ホント現金な人間だと思いながら僕は寝心地のいい布団に包まって目を閉じた。