“川の交わる場所”シリーズ

3. 行く川の流れ
act 2

「センパイ! センパイ! 居るんだった返事してください。センパイ!」
 チャイムをいくら鳴らしても先輩は出てこなかった。
隣近所の迷惑を顧みず、俺は力任せにドアを叩きながら声を掛け続けた。
でも……部屋は静まり返ったままで。
イヤな感じはもう体中に広がっていたけれどどうしたら良いのかも判らなくなって、途方に暮れた俺はドアに背中を預けてもたれかかった。その時、尻の辺りに何か堅いものが当たる感触にズボンのポケットに手を突っ込んだ。指先に触れたソレを引っ張りだして俺は首をひねる。
「カギ? 一体、何処の……」
 自分のはキーケースに付けて鞄の中だし。
 あっ! ひょっとして……。
 俺は急いで先輩の家の鍵穴にそれを差し込んだ。
 ガチャリ。
鈍い音を立ててカギが外れた。
 昨日、メモと一緒に編集長がくれたものをよく確かめもせずにズボンのポケットに突っ込んだままだったんだ。
 薄く開いたドアの隙間から中を伺う。
「……うっ!」
 ムッとする臭気に思わず口を覆ってしまう。なんとかこらえて身を乗り出して中を覗き込んだ。
 やはり人の気配はない。
 おまけに朝だというのに中は真っ暗だ。
 ただ事じゃない! そう思ったのは直感。
「先輩? 失礼しますよ……」と小さく声を掛けて、靴を脱ぐのももどかしく上がり込み手探りで廊下を進む。
 酒の匂いが物凄い。それだけでも酔ってしまいそうだった。
 吐き気をこらえ、闇に慣れてきた目を透かして壁にある電気のスイッチを入れた。
「――――!」
 明かりに照らされた光景に俺は息を飲んだ。
 テーブルの上といわず床といわず、ウイスキーのボトルやビールの缶が散乱しているリビングの丁度真ん中辺りに、先輩はいた。
 自分の吐瀉物に顔を突っ込む様にして倒れていた。

 発見した時、先輩は睡眠薬の瓶を握り締めていた。床のあちこちに散らばった錠剤の白とフローリングの茶色のコントラストがやけに毒々しく俺の目に映った。
電話に駆け寄って百十九番を押して救急車が来るまで、俺は力のない先輩の体を抱き抱えて震えていた。
 近くの病院に運ばれた先輩は、処置室で胃の中のものを全部吐かされ洗浄をしてもらい、運よく空いていた個室のベッドの上で点滴につながれたまま今も眠り続けている。
『飲んだのは致死量に近い量だと思われます。が、酔いのためにあらかた吐いてしまっている様です』
そう医者に報告する救急隊員の声を聞いたような気がする。
「致死量には至らないけれど、どれくらいの量が体内に吸収されてしまったのかの判断はできない」と医者は言った。
「とにかく、死に至ることはないから目が覚めるのを待ちなさい」
 ベッドの脇でなす術もなく立ち尽くしていた俺の肩を力づけるように叩いて医者は病室を出て行った。
 手近にあった椅子を引き寄せて腰を下ろし、そっと先輩の右手を握った。
「どうしてこんなことをしたんだよ先輩。早く目を開けてくれよ先輩……」
 祈るような気持ちで右手を力一杯握り締め、額に押し当てた。
 不意に胸ポケットに入れた携帯電話が震えた。握り締めていた先輩の手を静かに布団の中に戻して、すかさず通話ボタンを押す。
 電話は編集長からだった。
 先輩が処置室に消えたのを見届けて、編集部に電話を入れたのだが、会議が長引いているらしく編集長は戻っていなかった。電話に出たエミちゃんに適当な理由を話し、とにかく連絡を待っていると伝言を頼んだ。
 俺は掛け直す旨を伝えて電話を切った。先輩が眠っていることを確かめてフロアの電話コーナーへ急ぐ。
 病院での携帯電話の使用は禁止されている。様々な医療機器に電話の電波が影響を与えることを防ぐためと他の患者の病状を考慮してのことだ。
 売店で両替してもらった百円玉を持って一番奥の電話にかじりつき掛け慣れた編集部の番号をプッシュした。
 コール音がなる暇を与えず編集長が出る。
「どんな状態だ?」
 せっつく様に聞いてくる編集長に話しても言い状況なのかの確認をする。先輩だって他の仲間には聞かれたくはないだろうと思ったからだった。
「大丈夫だ。皆、昼休憩に出ていて私一人だから」
 編集長の返事に俺は今朝からのことを話して聞かせた。
 受話器越しに編集長の深い溜め息が聞こえた。
「有り難う。お前がいてくれて助かったよ。すぐにでも代わってやりたいんだが、まだ会議が終わらなくてな。悪いが板東、私が行くまで付いてやってくれないだろうか……」
 数々の編集畑を渡り歩いてきた腕を買われてウチの社長に引き抜かれたと聞いたことがある。ヘッドハンティングされたって訳だ。なんせ彼が手掛けた雑誌は今でも売り上げベストテンの常連だというし、何人ものベストセラー作家も育てているらしい。
 ウチの社に誘われた時先輩も一緒に連れてきたのだと言っていた。先輩がまだ駆け出しの頃から可愛がってきたのだと、一緒に飲んだ時に聞かされていた。
 その人間がベッドで伏せっているのだ。
 編集長の気持ちは手に取るように判った。
 俺だってそうだから。
 真理の助けを借りて入ったココで、右も左も判らない俺に、編集者としてのノウハウを手取り足取り教えてくれた。
『いいか板東。仕事は習うより慣れろさ。失敗を恐れるな』
ほとんど褒めると言うことをしない厳しい人だけど、そのお陰で今の俺が在るといっても良いくらいだ。その代わり一旦仕事を離れれば気の良い兄貴のようで気負わずに付き合えた。四つ年上で面倒見が良くって……真理とは違った意味で好きな人なのだ。
「言われなくてもそのつもりですよ」
と、俺は答えていた。
「そうか。それじゃ頼んだぞ。なるべく早く行く様にするから」
 俺の返事に安心した様に編集長は言って電話は切れた。

 病室に編集長が姿を見せたのはその日の夜遅く、まもなく面会時間も終了するという頃だった。
 編集長の顔を見た途端、張り詰めていた緊張の糸が切れてしまったのか、俺は情けなくもその肩にもたれかかってしまった。
 先輩が発作的に自殺を図ってしまったのは、体調が悪かったせいじゃないハズだ。もっと別のところの何か――――。
 眠り続ける先輩を見守りながら考え続けていたのはその事ばかりだった。
 それが俺に判ろうハズもないけど。
「済みません……昨日、先輩の顔色が悪いことに気付いていながら……」
 そこまで言って口ごもってしまった俺の背中をなだめる様に編集長は叩いて、
「そう気に病むな。お前は良くやってくれた感謝する。後は私が代わろう。今夜は家に帰ってゆっくり休め。明日から大変だぞ」
 優しく笑って言った。俺はその言葉に甘えて付き添いをバトンタッチした。

「何をどうしたらこんなに散らかるんだろう……?」
 改めて部屋の中を見渡して俺はつぶやいた。
 病院を出た俺は家に戻らず先輩のマンションに直行した。部屋をそのままにして救急車に乗り込んだことを思い出したからだ。
 先輩が戻ってきても、こんな部屋じゃゆっくり休むこともできないだろう。
 それくらい酷い有様だった。
 何だって先輩はこんなことをしたんだろう?
 いくら考えても俺には判らない
 答えの出ないことを考えるのは俺の性に合わない。あーだこーだ悩むより体を動かすことの方が俺には合ってる。
 取りあえず掃除だ。まずはこの匂いをどうにかしなくちゃな。
 一体何日閉め切っていたのか……部屋の中の空気は澱んでいて、こんな中に居たら元気な俺でも気が滅入って塞ぎ込んでしまいそうだ。
 ベランダ側の窓にかかっているカーテンを引き窓を思い切り開け放つ。昼間は夏の太陽がギラギラしててじっとしてても汗がにじんでくるけど、夜は幾らかましになる。おまけに先輩の部屋は七階だから、吹き込んでくる風は地上よりは遥かに気持ち良かった。
 そこら中に散らばったビンだの缶だのを手当たり次第にゴミ袋に放り込む。その次は紙屑なんかを拾う。目に付くゴミをあらかた拾い集めて俺は考えた。夜だし、周囲の迷惑を考えると掃除機は掛けられない……となると。これしかないな。
 俺は洗面所の戸棚から探し出したバケツに水を汲んできて雑巾を掛けることにした。一通り拭き終えたら次は床拭き用洗剤で磨き、仕上げは乾いた布でカラ拭きだ。
 部屋に満ちていた澱んだ空気と臭いが消え、リビングが綺麗になる頃にはすっかり夜が明けて、開け放っていた窓から清々しい朝の光が差し込み始めていた。
 ベランダに出て思いっきり伸びをする。今日も又、暑くなりそうだと感じさせる、それでいてどこか新鮮な空気を胸一杯吸い込んで深呼吸。
 久々に動かした体に軽い疲労感を感じた俺は悪いと思いながらシャワーを借りた。夜を徹しての掃除ですっかり汗ベタのシャツで仕事に行く訳には行かないし、かと言ってウチまで帰るのも面倒だからついでに着替えも拝借してしまう。
 この際だからとヤカンも借りて湯を沸かしコーヒーを飲みながらほっと一息ついて俺はぐるりと部屋を見渡し、男の一人暮らしなんて、皆似た様なものだな……と思う。
『男所帯にウジが沸く』ってのは言い得て妙だ。
 ここまで酷くないにしろ俺の部屋の散らかり具合も似た様なもんなのだ。それに俺と同じ様な場所にカップもコーヒーメーカーもしまってあるっていうのもね。

 時計が9時になるのを待って、着替えを詰め込んだ紙袋を持ってマンションを出た。
 向かうのはもちろん先輩のところ。

 エレベーターを降りたところで俺に向かって微笑み掛ける女性に会った。
「おはようございます」<BR>
 サラサラのロングヘアーに涼しげな水色のサマーニットのワンピース姿の彼女は俺に向かって親しげに声を掛けた。
「誰だっけ?」と首を傾げて考えることしばし。昨日世話になった病棟の看護婦さんだと思い出した。
 白衣に身を包みきびきび働く姿とは打って変わったラフなスタイルに少しの間見とれてしまった俺を、
「気が付かれましたよ」
 彼女の一言が現実に引き戻した。
「ほほ…ほっ本当ですか?」
 聞き返しながら彼女の肩をガシッとつかんでしまう。
「ええ。つい先程」
「どうもありがとう!」
 驚きと苦笑が入り交じった彼女の顔が上下に動いたのを見た俺は、挨拶もそこそこに病室めがけて猛ダッシュ……しかけたところに「廊下は走らず静かにお願いしますね」と柔らかく釘を刺されて、頭をかきながら足音を殺して早足で歩いて病室へ向かった。
 小さくノックしてドアを開ける。気付いて振り返った編集長に軽く会釈して俺はそろそろとベッドに近付いた。
 先輩はベッドに横たわったまま、顔だけを俺の方へ向けた。
 僅か数時間しか離れていないのに一回り小さくなった様に感じた。その代わり昨日より顔色は少し良くなってた。
「先輩、何やってんですか! でも……生きてて良かったァ……」
 思いっきり怒鳴ってやりたかったのに、口を付いて出たのはそんな言葉、しかも情けない声になってしまった。不覚にも鼻の奥がツンとなってしまう。
「太朗、済まない。迷惑かけたな……」
 そっと手が伸びて突っ立ったままの俺の手を握った。俺はその手に手を重ねて、
「馬鹿なマネはしないでくださいよ。寿命が縮むじゃないですか! 悩み事抱えてるんだったら言ってください。そりゃ頼りないかも知れないけど、話を聞くぐらいなら俺にだってできるんですから」
 泣き声にならない様に一息で言い切った。
「本当だぞ……」
 俺の言葉を引き取った編集長の声に先輩の瞳から大粒に涙がこぼれた。そのまま先輩は声を殺して泣いた。
 俺も編集長もただ黙って先輩を見ていた。
 先輩が落ち着いた頃、編集長がその肩に腕を回して引き起こした。
「さあ、帰ろうか。板東、悪いんだが車を回してきてくれないか。私はこいつを背負うから」
 編集長から渡されたキーを握り締めて俺は慌てて病室を出た。
 編集長の台詞に先輩は頬をほんのり赤くしてはにかんだ表情を浮かべたのだ。その顔を見たら、何となく邪魔しちゃいけない様に思えて……。
 あの二人の間には俺の立ち入れない何かがある様な気がした。
例えて言うなら俺と真理みたいな……ってのは考えすぎかな?

「お前って結構マメな奴だったんだな……」
 先輩をベッドに寝かせて出てきた編集長の第一声がこれだった。
 何なんですか。その言い方は! 俺はね、誰かさんのお陰で、家事一般が得意になっちゃったんです……なんて事は言えないから、カップを用意しながら「ええ、まぁ……」と言葉を濁した。それなのに、
「仕事場のデスクもマメに片付けてほしいものだな……」なんて。
 編集長、一言多い! けど、こんな軽い冗談を言えるって事は先輩、落ち着いたってことか?
「鋭意努力します! で、先輩の様子はどうなんですか?」
 俺はコーヒーを入れる手を止めて編集長に聞いた。
「薬が効いてきたのか、また眠ったよ」
 答えながら編集長は椅子に腰掛け煙草に火を付けた。
「一安心ですね。あっ、編集長コーヒーでもどうですか?」
「ああ……それより腹減ってないか? 板東」
「そう言えば、少し……」
 反対に聞かれて答えたところで、現金にも腹の虫が暴れだした。
 よく考えてみれば、昨日から口にしたものと言えばコーヒーだけ、腹の足しになる様なものはなにも食べていなかった。気持ちが張り詰めていたせいで腹も空かなかったのか、イヤ、腹が空いた事も判らなかったくらい気が動転していたってこと……か。
「じゃあ、メシでも食いに行こうか」
 編集長はつけたばかりの煙草をもみ消すとさっさと玄関に向かう。俺も先輩の部屋を気にしつつ後に続いた。

 近くのファミリーレストランに腰を落ち着け、ランチを綺麗に平らげ食後のコーヒーを口にしてやっと落ち着くことが出来た。
 店に入ってから編集長は先輩の事には触れようとせず、今月号のことや次号の企画……つまり昨日の会議の結果を聞かせてくれた。
 次号は『創刊三周年記念号』だから結構盛り沢山な内容だった。早く先輩に復帰してもらわないと、編集部の人数だけでは修羅場になるのは火を見るよりも明らかだった。
 又、真理に会えない日が続くなぁ、ヤダなぁ……なんて、一月以上先の事を思い悩んでいた時だ、
「板東、悪いんだが、お前しばらく淀に付いてやってててくれないか?」
 すっごく真面目な声で編集長が聞いた。
 何だって。先輩についてろ?
 それってどういう事……?
 今イチ言葉の意味を把握しきれないでいる俺に編集長は言った。
「何か精神的なコトが原因となっているんだろうが、一人で置いておくと又、発作的にやるかもしれん……と医者が言ってる」
「そんなに……」
 悪いんですか? と続けようとした俺の言葉をさえぎって編集長は続ける。
「らしいな。私が付いていてやれればいいんだが、立場上、そう言う訳にもいかないんだ。だから頼む、この通りだ」
 そう言ってテーブルの上に両手を突いて頭を下げた。
 そんな事をされると思ってなかった俺はマジで慌ててしまう。オタオタと自分でも情けないくらいに狼狽えて編集長の腕を掴んだ。
「やめて下さいよ編集長。頭、上げて下さいって。そんなことしなくたって俺、先輩の側離れませんから。どーんと任せてくれて大丈夫ですって」
「そうか。感謝する」
 編集長はホッとした表情を見せた。
「でもね、この時期に俺が抜けちゃって大丈夫ですか? 只でさえ忙しい時ですよ?」
 俺としてはこっちの方が心配だった。
しかし編集長はb、
「心配しなくて大丈夫だ。それはこっちで何とかする。他からも応援を頼むつもりだし、お前は淀のところで自分のノルマを仕上げてくれれば良い」
 自信たっぷりに言い切ってくれた。
 そう言う事なら安心だ。
 判りました、とうなづくと編集長はさらに続けた。
「それと……だ。アイツの担当しているページの事だが……」
 ああ、それがあったよな。
 先輩は『愛と性春の旅立ち』って悩みの相談コーナーと『清流のつぶやき』ってコラムを書いている。これが結構人気の高いページだったりするから休載になったら苦しいかも、差し替えの原稿どうするんだろう……なんて、呑気に考えてたら編集長はとんでもないことを言い出した。
「お前やってみろ」
 は? 今、何ておっしゃいました?
 なんてとぼけてる場合じゃない。
「何言ってんですか、編集長。冗談は止めてくださいよ」
「冗談なんかじゃないぞ。私は真剣に言ってるんだがな」
「そんな―――ムリです。絶対ムリですって!」
 力一杯、否定の言葉を吐き出して俺は俯いた。
「何を言ってるんだ、チャンスじゃないか。物書きになりたいんじゃなかったのか? それとも、もう諦めてしまったのか?」
編集長は諦める気配を見せずに、面接でおれが言ったことを持ち出した。
こんな時にズルイ…………。
「そりゃ、そうですけど。でも……先輩みたいな文章俺には書けません」
 後書きについてる一言程度じゃないんだぞ。丸々一ページ使うんだぞ。そんな大事なページを俺ごときに……。
 一度でも人目に触れるモノを書いた経験でもあればこんなこと、どおってことないんだろう。でも俺には学生時代、投稿し続けて全てボツくらった……と、自慢にも何にもならない経験しかない。
 情けないけど自信なんてないよ――――。」
「なにもアイツの様な文章を書けなんて言ってない。お前なりの文章でいいんだ。与えられたチャンスは最大限に生かすもんなんだ。それにな……」
 編集長の言うことは良く解る。
でもなぁ……。
 どうにかならないもんかと上目遣いに顔を伺った俺に編集長はニッコリと微笑んでこう続けた。
「私が読んで使えないと判断したら、遠慮なくボツにするから。思ったままを書いてみろ」
 あっ、そーですか。ダメでモトモト……ね。なら、少しは気は楽かも。
 あからさまにホッとした顔をした俺にしっかり釘を指す事は忘れない。
さすがは編集長。
「判りました。精一杯頑張ります……」
 少々頼りなげに俺は答えた。
編集長は満足そうにうなずいて胸ポケットから財布を取り出すと万札を数枚俺の前に滑らせた。
「裸で悪いんだが、これを当座の費用にしてくれ」
「そんな、貰えないですよ。給料入ったばかりだし……」
 まったく、慣れないことをしないで欲しいよ。せっかく落ち着きかけたのに又、逆戻りだ。どうしたら良いのか判らなくなる。
『使え』『貰えない』の押し問答がしばらく続いた後、編集長は大きなタメ息をついた。
「以外とガンコな奴だな、お前は……。じゃあ、淀の見舞いってことでどうだ? アイツに栄養のあるものを食わせてやってくれないか」
 そう言う風に言われたら、もう反対する事なんかできなくて、
「そう言う事なら……」
と俺は素直にうなずくしかなくなってしまった。
 細かい打ち合わせをして(驚いた事にこの計画はすでに編集長の中でしっかり決まってたらしく、俺の仕事道具、一切合切用意してあった)俺達は別れた。
 途中、スーパーで必要なものを買い込んで先輩のマンションへ向かった。
 でも先輩に何て言えばいいんだろう。
 心配だから……とも言えないし。先輩の方から断られてしまうかもしれない。
う〜ん。
 買い物袋を両手に抱えて唸りながら歩く俺は、さぞかし滑稽な奴に見えたんだろうな。フト気が付くと、擦れ違う人が妙な目で見ていた。
 ああ、もうやめた。全部、包み隠さず先輩に話そう。それで帰れと言われたら素直に引き下がる事にしよう。
決めた!
 悩むよりぶつかってしまう方が楽だよな。
 俺はブンブンと頭を振り、周りの人に愛想笑いなんかしながら足を速めた。

 カギを開けた玄関先でフラフラと部屋から出てきた先輩を見つけた俺は荷物を取り落としそうになった。
「先輩! 何やってんですか! 寝てなきゃダメだってば!」
 荷物をその場に下ろし先輩に駆け寄って身体を支え、部屋へ入れようとした俺を先輩が引き止めた。あれだけの事をした身体のどこにそんな力が残っていたのかと思うほどの力で俺押さえ付けるてくる。先輩を軽くにらみ付け、文句を言おうと口を開きかけた俺に向かって先輩は苦笑いしながらこう言った。
「太朗、トイレぐらい行かせてくれ…」

 用を足してすっきりした表情の先輩をベッドに寝かせて編集長の言葉をそのまま伝えた。
 勿論『発作的に』のところは省いてだ。
 意外な事に先輩はすんなりと受け入れてくれたのだ。
 俺はキッチンに戻りポトフの仕込みに取り掛かる。
日頃の不摂生とムチャな飲み方をしたせいで先輩の胃は相当荒れているらしい。まずは固形物よりも胃に優しいものからだ。
これは俺の自慢の一品でスープだけ飲んでもいいし、具も美味しくいただけるという優れもの。おまけに鍋に材料を入れて煮込むだけというお手軽さ。加えて言うなら、煮込めば煮込むほど味がよくなって最後の最後まで美味しく食べられる、一人暮らしにはもってこいのメニューなんだ。
 鍋の様子が見られる様にキッチンのテーブルの上に原稿を広げる。
 編集長に言われるまでもなく、与えられたチャンスは生かすつもりだ。
 少しでも真理に近付くために――――。
 俺は真理にライバル意識を持った事はない。でも、やっぱり同じ視線で物を見たいと思うし、肩を並べていたい。少しでも真理に必要とされる男になりたい。常に対等で在りたいと思う。
 取りあえず先輩のページはおいといて、担当ページに取り掛かった。

「――――ン! 疲れた。今何時だ?」
 軽く伸びをして時計に目をやる。
 午後7時を少し回ったところだった。
 3時過ぎに鍋の火を止めてから四時間余り。周りが静かなせいか、何時になく仕事に没頭してしまったらしい。大方のところは出来上がってしまった。
 おお、今回は楽勝だね。いつもこのくらい静かに仕事がしたいもんだ。断然集中力が違うもんな。
 よっこらせ……と声をかけて立ち上がる。ずっと腰掛けていたから腰やら背中がやたらと突っ張って痛かった。今度は思いっきり伸びをした。
 キッチンの向こうのベランダの窓から暮れかかろうとしている茜色の空が目に入った。
 なんだかこの2日間長かったな。
 小鍋にスープを取り分け豆腐を入れて火に掛けながらそんな事を思った。
「真理は今ごろ何してるんだろう……会いたいな、声が聞きたい……いけねぇ!」
 約束の定時連絡をすっかり忘れていた。
 鍋をほうり出して慌てて電話に飛び付き自宅の番号をプッシュする。
『ただ今午後11時を5分回ったところだ。まだ帰ってきていない様だな。俺は明日、競走馬の牧場へ見学に行く予定だ。仕事も大切だろうが余りムリをしないように頑張れよ。それじゃおやすみ』
 相変わらず内容は素っ気ないけどホッとする優しい声、ずっと聞いていたい……じゃなくて! 俺も真理にメッセージを入れとかなきゃいけない。昨日とは状況がすっかり変わってしまったってことを伝えとかなきゃ……と思って真理ん家の留守電にメッセージを入れようとしたその時、
「いい匂だな……」
 リビングの隣の襖が開いて先輩が顔を出した。
 仕方無く俺は受話器を置いた。先輩が寝てからかけ直そう、そう思って。
編集長の頼みを胸を叩いて引き受けたからにはここは先輩の事が最優先だ。
 真理、ゴメン!
 俺は心の中で謝って、
「お腹空いたでしょう。今用意しますから」
 テーブルについた先輩に声をかけた。
「ああ……。でも食欲は余りないなぁ」
 言いながら気怠そうにテーブルに頬杖を付いた先輩の前に豆腐を浮かべたスープを置いた。
「まあそんなこと言わないで飲んでみてくださいって。俺の自信作なんだから」
 自分用に暖めた冷凍ピラフを持って先輩の前に腰を下ろす。
「……旨い」
 渋々と言った感じで一口飲んだ先輩はボソリと漏らして、あっと言う間に飲み干してしまった。
「でしょう? 真理も好きなんです、それ……あっ!」
 褒められて嬉しくなった俺は余計な事まで口にしてしまう。気付いて口を押さえても時すでに遅しで、先輩は幾分赤味を取り戻した顔をかしげて、
「太朗の恋人か?」と聞いた。
 俺はピラフを口に入れたまま「ええ、まあ」と言葉を濁す。それから黙々とピラフを口に運ぶ。

 実家にはカミングアウトしている俺だけど世間的にはまだだった。編集長は薄々感づいているかもしれないな。採用してもらった経緯が経緯だけにね。
 日本はまだまだ俺たちの様な人間を排除したがる傾向にあるし、自分から敵を作る必要もない。それに相手にも迷惑をかけたくないし、変な詮索をされるのも適わないし……で、これまで聞かれても適当にごまかしてた。
 まあ、名前だけじゃ男か女かの区別はつかないだろう……とは思うけど。
 そんな俺の思いを知ってか知らずか。
「どんな人?」
 先輩はお茶を啜りながら聞いてくる。
「一言で言うなら才色兼備」
 なんのかんのと言いながらも聞かれて嬉しい事も事実で、俺は聞かれるままに答えた。
「愛されてるんだな、太朗は……」
「ええ。俺には勿体ないくらいの奴です」
 言い切った俺を見ている先輩の顔が少し寂しそうに感じた。俺を羨んでいるのとは少し違う様な気がする。
 何だろう、この感じ?
 そりゃ他人のノロケを聞かされて面白い人間なんてそうそういないとは思うけど。それにしても先輩の表情の暗さは判らなかった。
 食後のコーヒーを飲みながらとりとめのない話をして、先輩が寝室に引っ込んだのは10時を少し回った頃だった。
 俺は時計とにらめっこをしながら後片付けをする。
 定時連絡は11時の約束。今度はきちんとメッセージを入れなきゃ。
 俺にとって会えない時に聞く真理の声は元気の源。真理にとってもそうでありたい。
どういう風に声を掛けようか。
少しでも真理が元気になれる様に……。
あれこれシュミレーションしながら汚れものを片付けた。
 エプロンを外して電話の前に正座して深呼吸。留守電の時はいつもおかしなほど緊張する。
 受話器を外してTEL番号をプッシュ、静かに流れた真理の声に聞き惚れて発信音の後に続いてメッセージを入れようと息を吸い込み『真理……』第一声を発した時だった。
 獣の様な叫び声とともに襖が開いて先輩が飛び出してきた。俺は受話器を放り出して先輩に駆け寄り身体を支える。その俺の身体を払い除けるようにして、何ごとかを呟きながら玄関の方へ行こうとする。前慮銃を振り絞らなければ先輩を止めるのはムリそうだった。仕方なく俺は首に腕を回して先輩にぶら下がると、
「……先輩、先輩。しっかりして! 俺、ここにいますから。どこにも行きませんから……」
 と耳元で囁いた。
 先輩の動きが止まり空ろな表情で頷く。
俺はそのまま先輩を引きずってベッドに寝かし付け電話のところに戻る。
「真理、ゴメン。またあとで……」
それだけ告げて電話を切った。
本当はもっといっぱい喋りたい、昨日の分と今日の分。でも今は先輩の事が気に掛かる。
判ってくれるよな、真理……。明日は絶対……だから。

 先輩は目を開けていた。その目は何も見えていない様だったけれど。うわ言の様に「ゴメン……」を繰り返している。俺は先輩の口許に耳を近付けた。ゴメンにつづく言葉は誰かの名前の様にも聞こえた。でもやっぱり聞き取れない。
「…うわぁ」
 突然、先輩が俺にしがみついた。不意を突かれた俺は先輩の胸に抱き込まれる形になってしまった。抜け出そうともがいたけど、信じられないくらいの力で、逆にしっかりと抱え込まれる。俺の頭を抱きかかえたまま同じ言葉をつぶやき続ける。
 こんなところ真理に見られたら誤解を招きそうだ。でも俺には振りほどけなかった。抱き締めてくる腕は苦しいくらいにキツかったけど、押しつけられた耳に聞こえた先輩の声にならない声が妙に悲しくて胸が痛かった。
 しばらくして先輩は何事もなかったように寝入ってしまった。ついでに俺も夕べの完徹の後遺症かそのまま先輩の胸に抱かれたまま眠り込んでしまったのだった。
 翌朝。
なんとか先輩の腕から抜け出した俺は留守電ではなく直接ホテルに電話を入れた。
 まだ八時だというのに真理は出かけた後だった。このホテルを拠点としてあちこち取材に歩いているらしいんだけど、今日から三日ほど『アイヌの研究家』に話を聞きに行くとかでホテルには戻らないそうだ。
 取りあえず、先輩の家にいると伝言を頼んで俺は電話を切った。それから、留守電にメッセージを入れた。連絡できなかった理由とお詫びの言葉を簡単にできるだけ誠意を込めて入れておいた。
 ちゃんと聞いてくれると良いんだけど……。